昨日は体調がちょっと今ひとつだったけれど、TTHのクラスを休むことはできなかったので行ってきた。


 夕べは普段どおりのお祈りとグループディレクションの他に、このプログラムの卒業生たち4名を迎えてのパネルディスカッションの時間があった。このプログラムはスピリチュアル・ディレクターとしての訓練を受けるためのものだけれど、卒業生たちのその後の活動は、多岐に渡る。昨日来てくれた卒業生たちは、C12というクリスチャンビジネスオーナーたちのフォーラムのシカゴ地区チェアマンをしている人、シカゴ地区の複数の病院のナースたちの訓練をしている人、アップルの顧客係で働いている人、そしてフルタイムでSDをしている人の4人。興味深いのはこれらの仕事は、彼らがTTHのプログラムを卒業したあとで、導かれた働きであることだ。


 彼らの言葉に共通していたのは、フォーマルなスピリチュアル・ディレクションであろうとなかろうと、神の御前に静まり、聖霊の御声に耳を傾けながら生きる生き方を歩み始めると、どんな仕事をしていても、自分の存在自体が、自分の関わる人たちにとってのGift of a presenceになるということだった。神のnonaxious presenceを体現する人になるということだった。


 


 The gift of nonanxious presence... ちょうど翻訳が終わったばかりのオートバーグの本の中にも出てきたコンセプト。自分が神様ご自身の nonanxious presenceを知っていなければ、それを体現するなどとうていできない。TTHの素晴らしさは、スピリチュアル・ディレクションをするためのスキルや情報や知識ももちろん与えてくれるけれど、それ以上に、私たち一人ひとりのトランスフォーメーションを重視していること。そのための沈黙やソリチュードの実践や、観想的な祈り、観想的な生き方の実践。 


 今朝読んでいた第一コリント1:20を思い出す。「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」この世の知恵。この世の知恵とは、そもそも、自分が他者を出し抜くこと、他者より上に立つ者になること、他者より多くを持つ者になることを目指すものではないだろうか。(そういう露骨な言い方はしなくても。)それは、キリストが教える神の国の生き方とは正反対。もっと大きく、もっと早く、もっと豊かに、もっと確実に、もっと効率よく… この世の知恵に根ざして教会や神の国の働きをたて上げようとするなら、そこにはキリストの居場所がなくなってしまう気がする。「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えるとは、文字通りにもそのとおりだけれど、文字通りにだけでなく、この世の知恵と対極にある価値観に根ざす生き方を伝えることでもあるのかもしれない…