今日からアドベントです。今年も昨年に続き、バイオラ大学のCetner for Christianity, Culture and the Artsのオンラインデボーショナルを使うことにしました。音楽とヴィジュアルとテキストによる、知性と情感に語りかけるようなデボーショナルです。
今週は「待つことと切望すること」にフォーカスするそうです。今日の聖書テキストは第一サムエル1: 9-17、ハンナが子どもが与えられることを求めて、宮で祈っている箇所。
私も、この4年ほど、主に求め、答えを待ちつつずっと祈っていることがあります。待つこと、希望を持ち続けることに疲れて、詩篇の著者のように「主よ、いつまでですか?」(詩篇6篇、13篇、89篇)と訴えたことも何度もありました。自分の中で勝手に制限時間のようなものを設定して、そろそろ事が起こらなければ、もう何事も起こらないのだろうと気落ちしたり、あせったり。そのうち、自分が待っているもの、求めていることが何なのかもわからなくなってきたり。
でも、ずっと待つ中で、祈り求める中で、だんだんわかってきたのは、私が真に待っているのは、ほかでもないキリストの再臨なのだということでした。キリストの再臨への希望は、決して失望に終わることはありません。なぜなら、キリストはすでに一度来られたからです。神が人となって、2000年前のユダヤ人のもとに、約束どおりに。
私の暮らしの中で、見たいと思っていることは確かにあります。でも、神さまは、それを「私の一生」という小さなパースペクティブの中に置くのではなく、神のご計画という大きなパースペクティブの中に置くようにと、繰り返し語ってくださっています。
Seedbedというサイトの今日の記事に、子どもと一緒にできる実験が載っていました。小さいコップと、そのコップがすっぽり入るくらいの大きなコップを用意し、大きなコップの中に小さなコップを入れます。小さいコップは B.C. (Before Christ)、大きいコップはA.D.(Anno Domini)です。そして、小さいコップのほうに、ピッチャーで、少しずつ水を入れていきます。ほとんど一杯になりそうになったら、注意深く、一滴ずつたらすように入れます。やがて、コップのふちまで一杯になったら、水は静かに溢れます。その瞬間は、「ときが満ちたとき」です。
But when the fullness of time had come, God sent forth his Son, born of woman, born under the law, to redeem those who were under the law, so that we might receive adoption as sons and daughters.(Galatians 4:4-5)
2000年前にイエスがこの地に来られたのは、神のときが満ちたときでした。B.C.のコップが満ちたとき、人間の歴史はリセットされて、A.D.が始まりました。
やがて、外側の大きなコップも一杯になるときが来ます。もういちど「ときが満ちる」時が来るのです。イエスが戻ってこられるときです。
小さなコップから溢れて流れ出す水の下に立つ自分を想像します。最初のときが満ちて、イエスが来られて、神の御国を始めてくださった。そして今はいったん天に昇られたけれど、代わりに聖霊を送ってくださった。イエスに従う決心をした私たちは、今、聖霊の生ける水の流れの中に生かされている… やがて外側のコップも満たされて、イエスが戻って来られて、神の国を完成してくださる日を待ちながら。
私は待っています。切望しています。でも、来るか来ないかわからないものを待っているのではありません。必ず来られるお方を待っています。
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。
主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
(イザヤ11:1-9)
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