だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。


人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。(マルコ8:34-36)



 2年前の秋から、シカゴで日本人の婦人聖研を持っている。小さなグループだけれど、とても祝されている。学びの教材には、3年前にうちの教会で使ったThe Storyという31週間で聖書全体を概観できるカリキュラムを使っている。基本的に隔週で集まっているけれど、小さいお子さんのいるお母さんたちがメインのため、お子さんが病気になったりとかで時には月に一度しか集まれなかったりするため、進み方はゆっくり。創世記から始まって、先週ついに25週目まで来た。次回が十字架の箇所。復活祭のころにちょうどクリスマスの箇所をやり、クリスマスが近づいたころに復活の箇所になってしまうけれど、それはそれで悪くなかったりする。(笑)


 上の箇所は、前回の学びの中で出てきたところ。人々はイエスについていろいろなことを言っているが、「あなたがたはわたしのことをだれだと言いますか」とイエスが弟子たちに尋ねると、ペテロが「あなたはキリスト(メシア)です」と答える。そしてイエスは弟子たちに、ご自分がそのあとたどることになる出来事についてはっきりと話されたが、ペテロは、そんなイエスの言葉を受け入れようとはせず、逆にイエスをいさめた。ペテロの中で、「メシア」とはローマ帝国を制圧してイスラエル王国を再建してくれるユダヤ人の王のことだったのだろう。それなのに、その王になるべき方が捨てられて殺されてしまうのでは困る。しかしそんなペテロを、イエスは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになった。ああ、神さまの人知を超えた大きなご計画と、私たちが頭に思い描く計画には、なんと大きなギャップがあることか。


 ペテロをお叱りになったあと、イエスが群衆と弟子たちに向かって話されたのが上記の言葉。


 有名な箇所だけれど、一読してすぐに意味がわかる言葉ではない。特に、「自分の十字架を負う」とはどういうことなのか。「自分の十字架を負う」という表現は、「苦難・苦しみ・不運を受け入れる」というような意味で、教会の外でも時々使われることがあるけれど、ここでイエスが言っているのは、実はそういうことではないらしい。当時の社会で、十字架を負うことが意味していたのは、死だった。十字架を負わされた人は(実際には十字架の横棒だけど)、処刑場までそれをかついで行き、そこで縦棒につけられ、処刑される。十字架とはいわば、死のシンボル。


 つまり、その前後で「自分を捨て」「わたしについて来なさい」「わたしと福音のためにいのちを失う者は…」ともあるように、「自分の十字架を負う」とは、自己に死に、辱めも苦しみもものともせず、最後までイエスに従順であれ、ということなのだそうだ。確かに苦しみも含まれるかもしれないけれど、ポイントは、自己に死に、徹頭徹尾イエスに従順であること。イエスご自身も、死に至るまで御父に従順であられた。


 上記の箇所のあと、イエスが高い山でモーセとエリヤと語り合っているとき、雲の中から「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という御父の声が聞こえた。「彼(イエス)の言うことを聞きなさい


 こんなことを語り合っていたら、このバイブルスタディに参加しているある姉妹が、「そう言えば以前、ある友人から、believerとfollowerは違うんだよ、と言われたことがある」と分かち合ってくれた。そう、イエスを神の子と信じているだけでは、イエスの弟子、イエスに'従う者'とは言えない。信じているだけなら、悪霊だって信じている。イエスを神の子、王、救い主と信じることの意義は、イエスに従ってこそ体験できる。


 そして、イエスに従うとは、暴君や嫌な上司や石頭の親父に従うのとはわけが違う。



すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。


わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。


わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)


“Are you tired? Worn out? Burned out on religion? Come to me. Get away with me and you’ll recover your life. I’ll show you how to take a real rest. Walk with me and work with me―watch how I do it. Learn the unforced rhythms of grace. I won’t lay anything heavy or ill-fitting on you. Keep company with me and you’ll learn to live freely and lightly.” (Matt 11:28-30 MSG)



 自分の十字架を負ってイエスに従うなんていうと、なんだかすごく辛いことが待っているように思えるかもしれないけれど、神さまの意図は、私たちが苦しむことではなく、その逆なのだよね。もちろん、私たちはこの世にあって患難があるし、イエスに従うとは、苦しみにも共に与ることだけれど。でも恐らく、私たちが苦しい、難しいと感じることの大半は、今まで自分の中に染み付いてきた肉にある歩みを「殺して」、イエスのやり方を学び直し、御霊のうちに歩む生き方をする者となることなのかもしれない。ヘンな癖がついてしまったものを学び直すというのは、スポーツでも楽器の演奏でも外国語の発音でも、難しいものだよね。でも、イエスのやり方を学んで、それがすっかり身に付くならば、その歩みは軽いものとなり、イエスがおっしゃるように、たましいに安らぎが来る…


 ダラス・ウィラードは言った。「イエスの弟子にならないなら、そこにはどんな代償があるでしょうか。絶えざる平安、愛によって貫かれた人生、すべてのことを、何物にも勝る神のご支配の光のもとで見る信仰、どんな絶望的な状況にあっても、揺らぐことのない希望、悪の力に立ち向かい、正しいことを行う力、こういったものを、持てなくなるのです。」


 せっかくイエスを信じる決心をしたなら、イエスの弟子にならないままでいるのはもったいない。もったいなさすぎる。


 BelieverからFollowerへ。 イエスから学び、イエスに従い、ついて行く者となれますように。どの地においても、どんな状況にあっても。


そして、自分の小さな考えの中で、目先の勝利しか思い描くことができなかったペテロのようにではなく、神のことを思い、この地における神の国の完成の日を思い、その新天新地によみがえりのからだを持って住むことになるという、そこに私たちの究極の望みを置くものとなれますように。


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(前回のバイブルスタディーより)