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 先日ある本を読んでいたら、リチャード・フォスターの次のような文章があった。


 



Reflect on the ways that good people are often rejected and persecuted. Hold the mystery of this in your heart and pray through it, without attempting to undestand or explain.



 世の中には信仰ゆえに、義ゆえに、迫害されて命を落とした人たち(ボンヘッファーや、トーマス・モアなど)がいるが、なぜそのような不条理が起こるのだろう。なぜ神さまは、そのようなことが起こるのを許されるのだろう。そのことに思いをめぐらせ、そのミステリー(奥義)を心に抱き(holdし)、それを理解しようとしたり、説明しようとしたりすることなしに、そのことを祈る(pray through it)…


 殉教だけではない。世の中にはさまざまな理不尽なこと、納得のいかないことがある。歴史的にも、社会的にも、個人的にも。


 この文章の何が私の心に留まったかというと、holdという部分と、pray through itという部分だった。私たちの目には不条理と思えることを、心にholdする。それは、両手で何かを大切に包むように持つイメージ。握りしめるのではなく、拒絶するのでもなく、そっと手の上に乗せているような。そしてそれをpray through する… 


 フォスターがどういう祈りを想定してそう書いたのかはわからないけれど、それは、必ずしも答えが与えられるまで、何らかの手応えが得られるまで祈り抜くというのとも違う気がした。むしろ、自分の思いを合理的に納得させようとすることなしに、感じていることをすべて正直に主の前に祈りで差し出す感じだろうか。と同時に、自分の気持ちだけでなく、神さまについて私たちが知っていることも、祈りで告白していく… 


 その祈りの途中には、沈黙もあるだろう。高ぶる自分の思いを静めるための沈黙、神さまを待つための沈黙、そして、ただ主の慈愛に満ちた御臨在を味わい、その中で憩うための沈黙… 


 私が沈黙するだけでなく、神さまの側も、沈黙なさる… それは私の祈りを無視しているのではない。私の知性や経験では理解しえないこと、説明しえないことを、その御臨在によって私の魂にしみ込ませようとしておられるかのような、神さまの満ち満ちた沈黙…


 時折、神さまは私をそんな祈りに導いてくださることがある。それは、私にとって、至高の祈りのとき。






 救い主の誕生が、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに告げ知らされた。クリスマスストーリーを聴く私たちは、あたかも彼らがその後すぐに、赤ん坊に会えたかのように思ってしまうかもしれない。しかし実際には、彼らはその後、夜の闇の中を、赤ん坊を探してベツレヘムまで出かけていった。羊の番をしていた原っぱ(?)から、ベツレヘムの町まで行き、そこでマリヤとヨセフと赤ん坊を見つけるまで、彼らは何件の宿屋の戸を叩いただろうか。「飼い葉おけに寝ておられるみどりご」と聞き、町中の馬屋や動物たちのつながれている洞窟を、一つひとつしらみつぶしに探して回ったのだろうか。良い知らせが告げられてから、実際にその成就を目にするまでの間…


 私たちも今、その「狭間(in-between)」に生きている。約束が与えられてから、その成就を見るときまでの間。王なるイエス、メシアなるキリストが宣言されてから、実際にそのお方とお会いし、そのお方のご支配が、天と同じようにこの地でも完全になされるようになるときまでの間。羊飼いたちが約束を信じて、その成就を見るためにベツレヘムまで旅していったように、私たちも今、約束を信じて、その成就を見る日を待ち望みつつ、旅している。その道のりは暗いかもしれない。神が沈黙しておられるかのように思えるときもあるかもしれない。この世の喧噪の中にまみれてしまいそうになるときもあるかもしれない。それでも、約束を信じ、確信を持って、イエスに目を留めつつ歩み続けよう。この旅路はいずれ終わる。そのときまで、逃げるのでもなく諦めるのでもなく、自力でなんとかしようとするのでもなく、聖霊の助けのもとで、一日一日、今ここに与えられているときを、希望を持って、しっかりと歩んでいこう。


昨年のクリスマスの日の日記より。)