f:id:mmesachi:20141026135202j:image:leftこの週末、古い翡翠のネックレスをほどいて、Anglican Prayer Beadsというものを作ってみた。アングリカン・ロザリー(ロザリオ)とも呼ばれる。イギリス国教会の祭司たちが1980年代に使い始めたものだそうで、歴史は浅い。(似たようなもので、東方正教会が使うPrayer ropeというものもある。)


 なぜこんなものを作ったかというと、最近「観想的な祈り(contemplative prayer)」というものを学んでいて、観想的な祈りを祈るときに、心を静め、思いを神さまに集中させるのに、こういうものが役立つらしいと聞いたから。


 トーマス・キーティングというシトー修道会の祭司は、祈りにはdiscursive prayerとcontemplative prayerがあると言った。前者は、文字通りに訳せば「散漫な、とりとめのない祈り」ということなってちょっと聞こえが悪いけれど、要するに、自分の思考と自発的な言葉を用いる祈り、つまり普段私たちがするタイプの祈りのことかと思う。一方、後者は「観想的な祈り」で、自分の心を鎮め、思いを無にして、聖霊に聴く祈り。観想的な祈り自体は、その起源は紀元3~5世紀の「荒野の教父たち(desert fathers)」にまでさかのぼり、そこから東方教会(正教会)と西方教会(カトリック)へと継がれていった。


 カトリックや正教会では、観想的な祈りや黙想、沈黙といった霊的修練は今でもあるし、プロテスタントでも、似たようなものとして、いわゆるデボーション、クワイエット・タイム(QT)、静思の時(基本的に同じものを指すと思う)がある。でも、観想的な祈りとか沈黙とかソリチュード(独りになること)といったことを学ぶにつれ、プロテスタントの言う「静まり」というものとは、質的に随分違うような気がしてきた。プロテスタントのクリスチャンも、一人静まって、とか、心を静めて、とか言うけれど、カトリックの人たちが実践している静まりと比べたら、私たちのはほんの入り口でしかないように思う。今日本で、『大いなる沈黙へ』というフランスのグランド・シャルトルーズ修道院での修道士たちの暮らしを記録したドキュメンタリーが話題になっているが、こういうのを見ると、彼らの実践する「沈黙」は半端ないと思う。(英語のタイトルは"Into Great SIlence".私はDVDを借りて観ました。)


 修道士のように沈黙を実践するのは無理としても、ヘンリ・ナウエンの"The Way of the Heart" や 「静まりから生まれるもの」や、リチャード・フォスターの『スピリチュアリティ 成長への道』を読むと、一般のクリスチャンでもこういった実践をすることは可能であり、かつ非常に有益であることがわかる。また、現在受講中のスピリチュアル・ディレクションの講座でも、「観想的な生き方」に強調が置かれていて、自分の暮らし方、心の状態(いつもバタバタとせわしなく、心の中をいろんな思いが飛び交っている)を省みる機会が何度となく与えられるようになった。


 観想的な祈りという言葉を初めて聞いたときは、思いを巡らしつつゆっくり祈る祈りかな、くらいに思っていたのだけれど、先週、上記のトーマス・キーティングの定義に出会い、そうだったのか!と驚いた。そして、そのような観想的な祈りを助けるツールとしてPrayer Beadsが紹介されていて、それで早速作ってみたというわけ。ここ数十年、プロテスタントの間で、信仰の先人たちの霊性から学ぼうとする姿勢が盛んになってきたようだけれど(たぶん、第二バチカン公会議後の傾向?)、アングリカンの祭司たちがこのようなprayer beadsを用いて祈り始めたのも、その一つなのかな。


 


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ビーズそのものに力があるわけでも何でもなく、これは単に、祈りの順番や数を数えるための道具らしい。ビーズを片手に持ち、まず十字架の部分に触れ、それからビーズ一つひとつに触れながら祈る。そして一周して、また最後に十字架の部分を触れながら祈る。祈る言葉は、ある意味自由なのだけれど、基本の型がある。十字架(The Cross)を触れながら祈る祈り、次のビーズ(招詞 The Invitatory)を触れながら祈る祈り、その次のビーズ(十字 The Cruciforms)、その次に続く7つのビーズ(The Weeks)を触れながら祈る祈りを事前に決め(それぞれ短い)、暗記し、ビーズをたぐりながら順番に祈る。祈る言葉に思いをめぐらしつつというよりは、むしろ、無心になって祈るものらしい。祈るというより、唱える?(カトリックのロザリオの祈りと似ているかな。)追記:無心になって祈ると言っても、心を無にすることそのものが目的なのではなく、むしろ、祈りの中でキリストに出会うこと、神の語っておられることに気づけるようになること、御霊の動きに気づけるようになることが目的。


 各祈り(式文)には、キリスト教の歴史の中で先人たちが祈ってきた祈りや、御言葉を組み合わせるのが一般的なようだ。たとえばこのサイトにあるような。(こちらこちら


 私は、いくつかのサイトを参照しながら、次のようにしてみた。



The Cross


God, come to my assistance.


Lord, make haste to help me.


Glory to the Father, and to the Son, and to the Holy Spirit.


As it was in the beginning, is now, and will be for ever.


Amen. Alleluia.


The Invitatory 2回


Father Almighty,


Maker of heaven and earth,


Set up Your Kingdom in our midst.


The Cruciforms 4回


Holy Spirit, breath of the Living God,


Renew me, and all the world.


The Weeks 7回を4回


Lord Jesus Christ, Son of God,


Have mercy on me, a sinner.


最後のThe Cross


 主の祈り



 ちなみに、このprayer beadsがこういう形になっているのには象徴的な意味があるそうで、興味のある方はこちらをどうぞ。


 この祈りの方法は、昨年紹介した、定形の祈りにも通じると思う。昨年からDivine Officeというアプリを使って祈るようになっていたのだけれど、祈るというより、つい聴くだけになってしまうことが多かったので、これからはこちらを自分の祈りの中に取り入れていきたいと思う。しばらく試してみて、しっくりこなかったら止めてもいいし。いろいろ試行錯誤しつつ、祈りにはさまざまな形があることを学び、祈りの地平線が広がったような気持ち。祈りを深め、神さまとの関係も、さらに深めていけますように。


 



Prayer is not just dialogue; it is the first stage of surrender. (Michael Casey)


 祈りとは単なる対話ではない。それは、明け渡しの第一段階である。(マイケル・ケイシー)