先日のTTH(スピリチュアル・ディレクション講座)からのメモです。
 衝動的な生き方から、観想的な生き方へ(Movement from Compulsion to Contemplation)


●何かに駆り立てられるような生き方から、結果にとらわれない、柔軟な生き方へ
●現実を狭い視野で見る生き方から、現実を広い視野の中に置いてみる生き方へ
●自分で結果をコントロールしようとする生き方から、明け渡した生き方へ
●何かに捕われた不安な心から、物事を受け入れた平静な心へ
●何かにしがみつき、失うまいとする生き方から、手を離した、自由な生き方へ
●いつも過去と将来を考えている生き方から、『今、このとき』を大切にして生きる生き方
●自己に陶酔した生き方から、自己を認識している生き方へ
●自分を断固として守ろうとする生き方から、必要に応じて守るが、弱みを見せることも良しとする生き方へ
●自己嫌悪から自己受容へ
●感情的に壁を作り、二心のある生き方から、自分、神、他者との間に親密な関係を持ち、裏表のないシンプルな生き方へ
●他者とは「対処すべき存在」であると見なす生き方から、他者とは「関係を築くべき存在」であると見なす生き方へ
●無秩序な願望から、神への真の渇望へ
●雑然とした内的スペースから、充分なゆとりのある内的スペースへ
●偽りの自己から、正直で真実な自己へ
●快楽・快適さを求める生き方から、苦しみを受け入れる生き方へ
●子どもっぽい生き方から、子どものような生き方へ
●自分という存在の一部しか生きていないような生き方から、自分の全存在が活き活きとしている生き方へ

「観想的な生き方」というと、修道院にこもってひたすら祈りと御言葉の瞑想をしている生き方を連想するかもしれないが、世俗社会から引きこもることそのものが「観想的」なのではない。「観想的」の反対の概念は「活動的(active)」ではなく、「衝動的(compulsive)」また「反応的(reactive)」である。また、観想的な生き方は、イエスがそうであったように、退いて静まり、そして積極的に世に出ていって人々とかかわっていくという、二つの側面を持っている。


 この世では、頭の回転が早くてポンポン!と反応が返ってくる人や、思いついたらすぐに行動に移せる人のことを「有能」と見なすかもしれないけれど、あえてワンクッション置くこと。すぐに言葉を発したり、行動に出るのではなく、祈りを持ってあえてスローダウンすること。


 自分の中にどんな衝動があるのか、祈りをもって一つひとつ吟味して、それを主の前に差し出していきたい。


 私はボーッと考え事をするのが好きで、あまり活動的ではないため、自分は観想的な人なんだと思っていましたが、そういうことではないんですね。上のリストを見て、あらま、むしろ衝動的かも、と。(汗)はじめの頃のペテロは衝動的でしたよね。考える前にしゃべってる感じ。もちろん神さまは、どんな人のことでも用いることはできますが、イエスは「私に倣う者になりなさい」とおっしゃっているのですから、自分の衝動的な部分は取り扱われたいです。観想的な生き方についてメモしつつ、いきなり衝動的にブログデザインを変えていた私でした…(汗)



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