『あなたがずっと求めていた人生』(ジョン・オートバーグ)の書評を書いてくださっていた牧師先生がおられた。





マックス・ルケードの口調で、ダラス・ウィラードの世界にいざなってくれる。 夏休みに、予想以上の鋭く、温かいメッセージ、「修養会」でした。 ただ、やっぱり、知るのと、生きているのとは違う。オートバーグが繰り返す通り、本当にこのように生きるか、インパクトとある引用に使うだけで自分は変わろうとしないままか。 僕は、もっと変えられたい。 傷や怒り、余計な重荷を下ろし、二心を常に捨て、キリストの細き道を、友たちと旅する者とされていきたい。 だか、、出来ることから始めてみるのだ。



 このような感想を伺えて、翻訳者としても心から嬉しい。この先生の上に主の豊かな祝福がありますように!





 それから、今日はもう一つ、とても励まされることがあった。


 昨日、ある友人に次のようにメールした。 


 「1月に日本に行ったとき、ウィクリフの福田先生という方とちょっとおしゃべりする機会があったのですが、そのとき、うちの教会の霊的形成牧師はいつも"It's going to be all well. It's going to be alright. No worries"って言うんです、という話をしたんです。福田先生も、『そう、その通り!』と。そしてそれから、ふたりで、『ただ、そのall wellになるのが、自分が生きている間とは限らなくて、100年後かもしれないし、400年後かもしれない。神さまのタイムスケールで見なくちゃいけないのですね』ということで納得しあったのでした。


 たとえば、リック・ウォレンの息子さんが自殺しちゃったのも、ウォレン夫妻からすれば、ちっともall wellじゃないけど、神さまの視点から見たら、最終的にはall wellなんだということを、本気で信じられるか…というチャレンジ。何がどのようにしてall wellと言えるのかはわからなくても…」


 今朝、その友人からの返事で、『最終的に』だけでなく、同時に『今すでに』all wellとも言えるのかも、とあり、目からウロコというか、とてもハッとさせられた。


 そして、昨年の11月に書いたブログ記事と、そこで言及していたNTライトの「時間」の話を思い出した。


 ライトは、The Case for the Psalmsという本の中で、詩篇の中に見られる「時間」のあり方について、次のように言っていた。


"...the crossroads between our time and God's time, in which aspects of what we think of as the "Past" and what we think of as the "Future" can actually come together in what we perceive and experience as the "Present."


"(Psalms) make us to be people who know how to stand at the threshold of human time and God's time, and there to learn both humility and hope. Our time is not worthless, but any worth it may possess will come from God's goodness, not our control of our circumstances...."


 詩篇の世界に見られるのは、私たちの時間と神の時間が交差する場所。そこでは、私たちにとっての「過去」と「未来」が、「現在」のこととして体験される… そして、詩篇は、人間の時間と神の時間の交差する場にどのように立つのかを教えてくれるし、そこで私たちは、謙遜と希望の両方を学ぶ… 私たちの時間は決して無価値ではないけれど、そこにある価値とはすべて、神の善からやってくるものであり、私たちが状況をコントロールすることによってやってくるものではない…


 詩篇の著者が、情緒不安定?と思うくらい、絶好調かと思ったらいきなりズドーンと下がったり、そうかと思ったらまた神さまを高らかに賛美していたりするのは、神さまの時間と人間の時間の重なり合うところに生きているから… これは、決して矛盾しているのではなくて、最初のアドベント(キリストの誕生)と二度目のアドベント(再臨)の間に生きているキリスト者にとっては、ミステリアスで、なおかつ祝福された現実と言えるのかもしれない… そんなことを思わされ、励まされた。 神の民として神の国に生きる者になるとは、こういう感覚の中で生かされていくことなのかな…


 私たちの目には、決着のついていないたくさんのloose endsがあるように見えても、神さまの目には、すでに美しいタペストリーが織り上がっているのですね… その美しい織物を、信仰の目で見させていただきながら、善を行なうのに飽くことなく、強く雄々しく、喜ぶ者とは共に喜び、泣く者とは共に泣きながら、日々しっかりと、希望を持って歩んでいくことができますように。