数週間前、私たちがちょうどシアトルを訪れていたとき、あるニュースが飛び込んだ。


 シアトルにあるマルチキャンパスのメガチャーチ、マーズヒル教会(主牧:マーク・ドリスコル師)が、1998年にドリスコル師が創立したActs29ネットワークという教会開拓のための世界的ネットワークから除名されたというのだ。その理由は、ドリスコル師に関する好ましくない評判のゆえにActs29の働きに支障がでることを防ぐため、というものだった。




 さらにその数日後、ドリスコル師はマーズ・ヒル教会の主任牧師の立場も一時的に降ろされることになった。過去にマーズ・ヒル教会で働いていた牧師たち(この教会には何十人もの牧師がいる)から、ドリスコル師に関するさまざまな訴えが出ており、それについて教会が調査するための間、牧師の立場を退いてほしいと教会側が彼に通達したのだそうだ。




 ドリスコル師は説教の中でののしり言葉を使うことでよく知られており、そんな彼に眉根を寄せる人もいたものの、おおむね受けは良く、教会は急成長していた。しかし同時に、ドリスコル師に関するよくない評判は、私もいくつも目にしていたし、驚愕させられることも何度かあった。教会内でのパワーハラスメントやいじめ、女性蔑視の発言、自分とはタイプの違う著名牧師に対するあからさまな揶揄、ソーシャルメディアでの問題発言、最近ニュースになっていたものでは、自著のプロモーションのために20万ドル払ってマーケティング会社を雇っていたこと、などなど。いろいろな件について、彼が自分の過ちを認めて謝罪したというニュースも最近よく目にしていた。横暴なガキ大将のようなイメージで、どこか、サムソンを彷彿させる牧師だった。


 牧師の不祥事というと、お金の問題や暴力、また性的な罪が多いように思うけれど、ドリスコル師の場合はちょっと違った。彼の場合は、彼の品性、人格、霊的な不健全さが問題になったようだ。教会が急成長し、30代で著名牧師の仲間入りをした彼には、傲慢とプライドの問題があったと指摘する記事もあった。Acts29ネットワークも、神の御名に栄誉を帰すことにならない言動がドリスコル師に数多く見られたことを挙げていた。


 ドリスコル師は信仰を持ってまだ間もないうちに牧師になり、彼独特のスタイルが教会を急成長に導いたらしいが、本人も、「神は私を成長させてくださいましたが、その成長過程の中ではたくさんの不要な枝も伸びてきていました。神は今、そのような部分を刈り取っておられます」というようなことを言っていた。カリスマ性のあるリーダー、なんらかの卓越した賜物を与えられているリーダーは、人格的に未熟な部分があっても、それが目立たないままに(あるいは黙認されて)大きな働きに用いられることがあるのだろう。しかし用いられている本人は、それが一重に神の憐れみによるものであることを十分に自覚し、恵みによって品性が練られていくことを切に求めるべきであることを、改めて思わされた。そうでなければ、遅かれ早かれ、いずれ神ご自身がこのように大胆な刈り込みの鋏を入れることになる。実際、そういうことは、マスコミで報道されることはないだけで、私たちも皆経験しているのではないだろうか。自分が神さまから矯正され、刈り込まれる様子が報道され、皆の話題にのぼるというのは、辛いだろうなぁと思ったりもする。


 今回の件が報道されたとき、それ見たことかと思った人も少なくはなかったのだろうが、それ以上に、周囲もまたへりくだった思いで彼のことを見守っているように見受けられる。まさに、自分に罪のない人だけが石を投げなさい、である。


 また、ドリスコル師の件についての記事の中で、別の興味深い話も知った。




 この記事によると、Sovereign Grace Ministries (SGM)というミニストリーの主幹であったC. J. Mahaneyという人は、 "various expressions of pride, unentreatability, deceit, sinful judgment and hypocrisy"によって辞任したのだそうだ。さらに、2010年にはジョン・パイパー師も、「 (his) soul, marriage, family, and ministry pattern needed "a reality check from the Holy Spirit"」のために8ヶ月間のリーブ(休職期間)を取ったらしい。(パイパー師は2013年に彼が牧会していた教会からは正式に引退したが、それは不祥事などによるものではなく、次世代へのバトンタッチということだったらしい。) Mahaney師は、彼の霊的不健全さにより周囲のリーダーたちとの間に摩擦があり、彼の辞任は矯正措置だったらしいが、パイパー師はそのような問題が起こる前に、自主的に静まりのときを取って神さまの前に出たようだ。そういう姿勢は私も見習いたいと思った。


 このように自浄作用が働くアメリカの教会は、問題は隠蔽しがちな日本の教会文化よりも成熟しているなぁと思わされる。当事者も、周囲の反応も。


 プライドや傲慢の罪とは、周囲にはかなりはっきり見えるものの、自分では気づきにくいものなのだろう。だからこそ、自主的に、意図的に、主の前に静まって自分の心を探ることが必要だし、そのような時間を定期的に持つことの大切さを覚える。


 今、ドリスコル師がへりくだって主の刈り込み鋏のもとに自分を差し出している姿に希望を見る。周囲も、自分の弱さや問題を棚に上げ、それ見たことかと一斉に彼をバッシングするのでなく、祈りをもって見守りつつ、同時に自らを省みる機会としてこのときを用いているように思える。そうであって欲しいし、私はそのようにしたいと思わされた。






神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。


私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。


詩篇23、24





追記


:ドリスコル師は、10月14日付で、正式にマーズヒル教会の牧師を辞任した。(こちら