昨日も(そして帰国直後にも)書いたように、日本の満員電車で転んで腕を骨折しました。


 骨折の数日後には、右腕にひどいあざが浮き上がり、「おお!」という感じでしたが、f:id:mmesachi:20140617235918j:image:medium:right今はもう何でもありません。


 骨折した場所は、肩の関節の下あたりで、上腕の肩につながる部分が、斜めに折れていました。しかし筋肉は無事だったため、骨そのものは時間と共に自然治癒するということで、ギブスも、手術も必要ありませんでした。(感謝!)ただ、肩の関節は固まりやすいそうで、このままだと五十肩のように腕が上がらなくなるので、リハビリをしっかりするようにとのことでした。まだ重いものを持ち上げたり、負荷をかけるような動きはできませんが、なるべくなんでもするようにしています。


 おかげで、肩は大分まわるようになってきましたが、それでも鈍い痛みはずっと続いていて、高い棚の上のお皿の出し入れなどは痛くてできません。腕を持ち上げた状態でひねる動作(お皿を洗う、洗濯物をたたむ、飲み物を注ぐなど)も痛みます。そして不思議なことに、いちばん辛いのが、寝るときです。横たわると肩が脱臼するかのように痛み、どの姿勢を取っても、肩に負担がかかっているのがわかります。痛み止めを飲んでから寝るのですが、明け方までには痛み止めも切れて、腕の鈍い痛みと共に目覚めます。


 早く痛みがなくなってほしいですが、骨折のおかげで、シカゴに戻ってきて以来、スローダウンせざるを得なくなっているのは恵みです。とは言え、最初から入っていた予定は、多少の変更をした以外はどれもキャンセルせずにこなしていますが(それができるのもまた恵み)、痛みのおかげで活動も思考も鈍っていて、ペースがスローです。日本にいたときは、シカゴに戻ったらあれをしよう、これもやろう、と頭の中に思い描いていたのですが、その予定は随分狂いました。その分、ゆっくり座って身体を休めたり、本を読んだりしています。また、「痛み」や「静まり」や「スローダウンすること」などについて思いを巡らせたりもしています。


 スローダウンすることの祝福は、世界を回しているのは私ではないと、身を以て知れることです。自分の支配下に置こうとして握りしめていたものから、自由になっていくのを感じます。そして、生産的になろうとして、結果を出そうとして、フル回転で動いていたときには見過ごしていた、「the gift of the present(今、このとき、という贈り物)」を味わえるようになっていきます。(ちょっと余談ですが、前回のスピリチュアル・ディレクションで、ディレクターから「先のことに希望を置いて待ち望むのは良いことだけれど、"今"を味わい楽しむことにももっと目を向けてもいいのでは?」と言われたところでした。)


 思えば、そもそも私が転んだのは、満員電車の中での私の動きが素早くなかったためでした。電車のドアが開いたとき、ほかの人たちは瞬時にして降りる体制に入り、動き始めたのに、私は遅かったのです。混んでいたので、ドアが開いたら当然私もいったん外に出るつもりでしたが、足元においていた小型のスーツケースを持ち上げる間も、身体をドアのほうに向き直す間もないうちに、横から人の波が押し寄せ、そのままバッタリ倒れました。日本の帰宅ラッシュ時なので、無理もないのは重々承知していますが、特定のペースについていけない人は当然のように蹴散らされるありさまは、何だか今の社会を象徴しているようにも思え、心が沈みました。


 この世がこういうペースで動いているのを、すぐには変えられないとしても、せめてキリスト者にとっては、これとは違う生き方がスタンダードになってほしいと思います。聖書の言う「実を結ぶ」とは、この世の言う「結果を出す」こととは、まったく違いますよね。「実」とはもちろん「御霊の実」、つまり、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。私たちは勤勉であるべきでしょうし、迅速に物事を進めていかなければならないときもあるでしょうが、主にあって御霊に導かれつつ行っているならば、そこには御霊の実があるはずです。また、どんなに勤勉であるべきとは言っても、神ご自身も七日目には休まれたのですよね。イエスも、いつも定期的に群衆から退く時間を持っておられました。逆に、のんびりしているなら主の平安の中に生きているのかといえばそうとも限らず、「七つの大罪」の一つでもある「怠惰」に陥っている場合もあるかもしれません。


 「実でわかる」というのは、教会員の数が増えているかとか、ミニストリーが拡大しているかとか、より多くの本を出版したか(!)という意味ではなく、その人のうちに「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が増し加えられているか、ということなのですよね。自分の生活を見たとき、内側を見たとき、これらのものが増し加えられていないのなら、外側の活動がなんであれ、それは大した意味をもたないものとなります。そんなときは、生活を見直して、聖霊に働いていただくためのスペースを、もっと作っていかないといけないのでしょうね。そして、その一つにとても役立つのが、「スローダウンすること」…


 これは、個人レベルでもそうですが、共同体レベルでも考えていきたいことです。キリスト者の使命の一つに、「対抗文化を生み、その中に生きる」ことがあるというようなことを、複数の神学者さんや牧師さんが言っているのを読んだことがあります。スコット・マクナイトもそうだし、ウォルター・ブルッゲマンもそうだし、ティム・ケラーも言っていました。キリスト者の共同体が、教会が、神の国の価値観にしたがった「対抗文化」(alternative culture, counter-culture)を体現するものとなること… たとえばケラーは、「宣教とはキリスト者によるカウンターカルチャー的共同体を通してなされるものであり、神の国の福音を理解するなら、教会とは単に神を見出すのを互いに手伝う人々の集団ではなく、これからやってくる新しい創造を現す、この時代における象徴、また道しるべとなる」というようなことを言っていました。NTライトやダラス・ウィラードの言葉で言えば、キリスト者の共同体とは、これから完成される新天新地の「前哨地」(戦いのとき、敵の陣地の近くに作る味方の駐留所のこと)… 私たちの共同体は、神様の目から見た時に、「前哨地」として数えていただけるものになっているでしょうか…


 …とまぁ、ゆっくり身体を休めながら、いろいろなことを祈ったり考えたりしています。でももうお昼なので、これからちょっと家事をしましょう。^^


f:id:mmesachi:20140618015748j:image


湯布院の道端で。「はちこ、ちょっとそこに立って。写真撮ろう!」と夫。 後ろに見える山は…ごめん、夫、名前忘れた。あなたは何度も連呼してたのに。(笑)