前回の記事の続きです。


4.現代の正義に関する問題


 何年にも渡り、私が関心を寄せてきたことの一つに、グローバル経済に関する正義の問題があります。先進国にいる多くの人々は、経済に大きな問題があると言われると、驚くようです。世界経済は漫然と続き、確かに折々に危機が持ち上がったりするものの、まあなんとか解決し、そこそこやっているではないかと思うのです。それは、そうとも言えるし、そうでないとも言えます。


 長年にわたり、私たちが発展途上国とか第三世界などと呼んでいた多くの国々が、私たちが先進国とか第一世界と呼んでいた国の銀行や経済機関に対して、莫大な負債を抱えてきました。そして人々はこう言うのです。私に向かってそう言った人もいますが、「だって、彼らは巨額のお金を借りたのですよ。借りたものを、遅かれ早かれ返すのは当然でしょう」。


 ここで問題なのは、そういった負債の多くは、ずっと以前、時には50年も前に、当時の腐敗していた独裁者によってなされたものだったことです。彼らは国民を搾取するような指導者で、外国から借りたお金を、自分の権力を誇示するようなプロジェクトのために用いました。その後、独裁者は死去したか、退位したか、あるいはどこか安全な場所に逃げるなどしていなくなりましたが、国は、その負債を負い続けなければなりませんでした。


 しかし、どんなに借金を抱えても、国家が破産することはできません。最近アメリカでは、市が破産することは可能か、市が破産するとはどういうことか、破産するとどうなるのかという議論がありましたが、国家が破産するということは、とにかく不可能なようです。結果として、複利がふくらみ、債権者が大挙をなしてやって来て利息の返済を迫ります。そこにあるのは、新しい形の奴隷制度なのです。


 そのため、たとえば、国民全体が、本来生み出すべきではない実を育てることになります。それは、彼ら自身の経済にとって望ましくなく、本当の収穫ではないのですが、とりあえず手っ取り早く現金を得ることができ、それが利息を払うのに当てられます。しかし、あくまでも利息を払っているだけで、借金そのものがなくなるわけではありません。この恐るべき複利の一部を、かろうじて払うだけなのです。


 幸いなことに、この問題に関して世界中で多くのキャンペーンがなされ、嬉しいことに1990年代にイギリスでもそのようなキャンペーンがなされたのですが、それらのおかげで、グローバルな負債の多くが収まりました。(訳注:ジュビリー2000を参照)人々は、「よろしい、仕切り直しをしましょう」と言ったのです。


 私は、たとえばタンザニアの人たちと連絡を取り合っていましたが、そこではこのことがかなり突然成し遂げられました。おかげで、これまで前の世代が作った借金を支払うことに回っていたGNPを、教育や、住宅や、福祉や医療などに回すことができるようになりました。これは大変な変化です。しかし、このような変化が起こっていない国はまだまだたくさんあります。


 もちろん、それはそんなに簡単にできることでもなく、単に善悪で測れるものでもないのですが、全体的には、ロケット工学のように複雑なものでもありません。先進諸国の人々が、第三世界の非常に貧しい国の人々から、多額のお金を今なお搾取しているのであれば、これは奴隷制と呼んでしかるべきではないでしょうか。私たちはこれまで、往々にして歴史上の問題にばかり道徳的義憤を向けていましたが、今こそ、その義憤を結集して、この問題に圧力をかけるべきではないでしょうか。


 2008年に銀行が突然大きな危機に陥ったとき、彼等はロンドンやワシントンDCにやって来て(多くの場合プライベートジェットを乗り付けて)、「お金が数十億ドルほど足りなくなってしまったようなのだけど、助けてもらえませんか?」と頼みました。そしてどうなったと思いますか? 非常にお金持ちの人たちが、非常にお金持ちの人たちのために一肌脱いで、非常に貧しい人たちのためには絶対にしようとしないことをしたのです。「はいはい、いいですよ、納税者のお金を持っていってください。かまいませんよ、帳消しにしますから、大丈夫です。さあどうぞ。」そして、ものの数分のうちに、銀行家たちは自分たちに再び巨額のボーナスを払い始めました。誰のお金を使ってですか? 納税者たち、そして社会の底辺にいて苦しんでいる人たちの犠牲の上にです。


 目を背けている場合ではありません。私たちの社会は何かが間違っています。私は経済学の専門家ではありませんから、答えは持っていませんが、これは、イエスが「時代のしるしが読めませんか?」と言ったときのことに通じるでしょう。南風が吹けば、暑くなることぐらい、誰にでもわかります。中東に住んでいれば、もちろん南風が吹いています。それを知るのに、気象学の博士号を持っている必要はありません。同じように、マクロ経済学の博士号を持っていなくても、世界中で最も貧しい人たちが、最も裕福な人たちに対して複利を支払っているのであれば、何かが間違っていることは明らかです。私たちの時代にしっかりと持つべきなのは、このような道徳的明瞭さです。


 このような問題はほかにもたくさんあります。たとえば気候変動の問題もそうでしょう。多くの論争があり、人々はいろんなことを言っていますが、一つ指摘させてください。もし気候がこれまで変化していたように今後も変化し続けるのであれば、ほんの少しでも現在以上に変化するのであれば、海面が上昇し、それによって生活の糧を失うことになるのは、不思議なことに、バングラデシュなどの最も貧しい国々なのです。もしそういう被害が起こりうるのが英国や米国といった国々であれば、私たちは何とかしようとしているでしょう。


 このような問題を深刻に受け止めるべきです。一つには、愛ゆえにです。なぜなら、目を背けずに考えてみてください、正義とは、隣人が苦しんでいる問題を見るときの、愛の姿に他ならないからです。そして、もし私たちの愛を正義という形で表現することができないのなら、イエスはこうおっしゃるでしょう。「あなたはそもそも、『愛』とはどういう意味であるか、理解していたのですか?」と。(23:53)





5. 正義の言葉





 「正義」という言葉は、今日、よく話題にされる言葉の一つです。しかし、少し気をつけて見てみる必要があるかもしれません。5~6年前に教皇が国連で演説したときのことを覚えていますか。彼は、私たちが人権について語るときの言葉は、今や西洋の世俗の思想に乗っ取られてしまったと指摘しました。そのため、本来は、人は皆、創造主なる神の姿に似せて造られた、だから人々を大切に扱うのだという、昔ながらのヨーロッパのキリスト教文化から出てきたはずのものが、そういう観点から語られていたはずの「人権」が、その文脈から切り離され、今やあらゆるアジェンダ(政治的課題)に利用されうる危険にさらされるようになりました。そのため、誰でも、何らかの願望や、希望や、恐れや、衝動などを持つ人が、「ああ、人権がある! 私にはあれやこれを行う権利があり、誰も私を止めるべきではない」と言うようになりました。


 しかし、そのような、何でもありの傾向には待ったをかけ、正義について、もう少し厳密であるべきでしょう。聖書では、正義とは創造と新創造に固く根ざしたものです。現存の創造から引き抜かれるなら、すべてが悪や破壊や腐敗を生み出すものになります。何度も思わされていることですが、私たちは創造と新創造のヴィジョンを固く保つ必要があるのではないでしょうか。


 ここに一つのアイロニーがあります。それは、「創造論」に固執して、すべての人生の哲学の根拠を、創世記一章に見出そうとする人たちがいて、彼らは、本来「創造」とは何に関するものだったのかを忘れているのです。これは神の善い世界であり、どこかに向かっていくはずのものであり、人間は神の愛と知恵を、この世界の中に反映させるはずなのです。それが黙示録に至るまで貫かれていることです。言い換えると、創造とは、冒頭についているインデックスのようなものではないということです。「ほらね、私たちは聖書を信じていますから。私たちは創造論者ですから」そう言ってインデックスの隣にチェックマークをつける、というものではないのです。


 そうではなく、神はこの美しい世界を、共同体の場として生み出されました。大変興味深いことに、堕落の後、カインが傷ついて混乱した人として去ったあとも、彼は共同体が必要であることを知っていました。そこで、カインは町を建てました。非常に興味深いことです。そしてその後、数章のうちに、その町はバベルの塔になります。人間の傲慢さが、神に向かってこぶしを振り上げるのです。


 これは、私たちが、自分は何かのやり方を知っていると思うときにある危険です。どうやって正義をもたらすのか知っている、どうやって共同体を作るのか知っていると思うなら、簡単に傲慢に陥ります。そしてそれは、本来行おうとしていたものとは異なるプロジェクトになってしまいます。ですから、私たちは識別力を働かせなければなりません。「正義!正義!」と旗を振るだけでは不十分なのです。正義とは何を意味するのか、じっくりと考えなくてはなりません。


 バベルの塔の後になにが起きたかというと、神はアブラハムという遊牧民を召されました。どこに導かれるのかはわかりません。そして神は言われました。「あなたを通して、地上のすべての人々は祝福される。」それが、聖書全体のナラティブの終わりには、ある都市の情景を生み出します。その都市は、園でもあります。生ける水の流れ出す新エルサレムです。そこから全世界が潤されるのです。黙示録は言います、そこに生えている木の葉は、諸国の民のいやしのためだ、と。これが全世界のあるべき姿であり、あらゆる具体的なケースにおいて、正義とは厳密に言うと何なのかという私たちのディスカッションは、その姿を念頭においてなされるべきです。


 私にとっては、私が牧師として「普通の人」(普通の人などはいませんが、私の言わんとしていることはおわかりでしょう)と関わるとき、彼らはなぜ私のところに来るのか、何がいけないのかというと、そこにはいつも、人間関係であれ、状況であれ、仕事であれ、何であれ、何かうまくいっていないことがあるのです。そしてパウロがピレモンとオネシモの問題を扱ったときのように、私は何度も、正義の全体像に戻ります。詩篇の2篇や72篇に見られるような、そこに立っておられるイエスへの信仰、復活の朝に新しい創造を開始されたイエスへの信仰をもって、より大きな正義の全体像に立ち返るのです。


 全体像は分かっても、いつも問題となるのは、では今、ここにいるこの人にとっては、それが何を意味するのか、ということです。私は何事も自分でなるべく早く解決したいと思ってしまう人間なのでじれったくなるのですが、たいていの場合、こういった牧会的状況においては、そうはいきません。結局何をすることになるかと言うと、祈り、カウンセリングをし、助言をし、その人が属すことのできる何らかの共同体を持っていることを確認し、その交わりの中で、以前はできなかった形で成長し始めることができるよう助け、そのあとは、祈りをもって神に委ねるのです。私にはこの問題を解決することはできないけれど、神にはできる……、これは、牧師として、へりくだらされることの一つでもあります。


 ただ、私は親密に、個人的に、結びつけたいのです。この人が神と和解し、また隣人と和解するということとだけでなく、それを、すべての被造物が自由を得、束縛や腐敗から解かれ、神の子の栄光の自由を相続する、とパウロが言っている、壮大な全体像と結びつけたいのです。それが、私たちが正義について語るときのすべての言葉が根ざすべき全体像です。





 祈り:全能なる父よ、メシアの福音を通して私たちに与えられている、あなたの世界が正され、回復されるというビジョンを感謝します。メシアにあって、あなたがこの世をご自身と和解してくださったことを感謝します。私たちの罪を数えることなく、私たちにあなたの和解のメッセージを委ねてくださったことを感謝します。あなたの回復的な正義(restorative justice)がもたらされることを祈ります。それが私たちに流れてくるだけでなく、私たちを通してそれを切実に必要としているあなたの世界に向かって流れ出していきますように。それによって、大きな企画、計画、キャンペーンなどであれ、私たちの個人的な心の必要であれ、私たちのところにやって来る一人ひとりの方たちの必要であれ、私たちがあなたの代理人として、あなたの愛、正義、希望を、あなたの全世界にもたらすことができますように。イエスの御名によって祈ります。アーメン。