カリフォルニアでもたれたJustice Conference 2014での、N.T.ライトのメッセージのビデオです。






 試しに、前半を日本語に訳してみました。長いですが… (18:21あたりまでです。)後半は、また後日。


 読みやすくするために改行を適宜入れています。








 1. 詩篇に見られる神の正義


 私は子どものころから日常的に詩篇をずっと読んできましたが、90篇以降になると、いつもあることに気づきます。90篇以降、特に96篇と98篇で、賛美と祝賀の叫びがわき上がるのです。なぜなら、神がすべてのことを解決するためにやって来るからです。ほとんどの翻訳では、それは、「神が地をさばくために来られる」と表現されています。木々も、動物も、海も、すべての被造物が喜んでいるのです。


 ところが、この「神が地をさばくために来られる」という考えを、私たちは往々にして、否定的に受け取ってしまうことがあるようです。「さばき」、さらには「正義」という言葉を聞くと、誰かがやって来て、皆を叱りつけ、厳しい罰を与えるというような、否定的なイメージを思い浮かべるのです。しかし、木々や動物や海などが祝っているのはそのためではありません。被造物は、その奥深い部分で、何かがずれていて、あるべき姿にないことを知っていて、しかし創造主なる神がやって来て、すべてをあるべき姿に正してくださるから祝っているのです。


 ですから、イスラエルは初期のころから神を賛美していました。なぜなら、創造主として、正義を行う方として、神がやって来てすべての窮境を解決してくださり、きっぱりとすべてを正してくださるからです。このさばきは自然界だけに関わることで、人間は遠くから見ている傍観者、というわけではありません。これは人間の社会にも流れ出して、神のみこころに従って、上から下まで、すべてが完全に立て直されるのです。


 ですからこのテーマは、96篇や98篇のような詩篇だけでなく、他の多くの詩篇にも見られます。実際、2篇の初めから149篇の終わりまで、油注がれた者である神のひとり子によってこの世界全体の社会が立て直されるというビジョンが貫かれています。そしてその真ん中には、72篇という麗しい詩篇があり、そこには、正義をなしてくださる王が、その統治によって全世界を正してくださるというビジョンが描かれています。なぜこの王の支配を祝うのか、それは、このお方は、貧しい者、虐げられた者、社会の底辺に押しやられた者たちに目を向けてくださるからだということが、何度も強調されています。ほかの誰も目を留めてくれなかった者たちに目を向け、彼らのために正義がなされることが、世界全体に対する、"すべてを正す"という神のご計画の一部として、王の予定に入っていることが、何度も強調されているのです。


 そのように、最初から最後まで、そして真ん中、そしてそれ以外にもあちこちにおいて、詩篇の記者は神の正義を、将来実現されるものとして、また、この王を賛美する者たちが住まう今この時においても、現実となるものとして、祝っています。言い換えれば、「まあ、いつか神はやってくださるでしょう」というものではなく、この王はすでに主権を持っているお方であり、私たちはこの方に訴えを持っていくことができるのだと、賛美と礼拝において私たちが思い起こすかどうかの問題であるということです。


 ですからそれは、多くの詩篇においては、他の人によって著しく傷つけられたというような、非常に個人的な訴えに対する正義として描かれています。実際詩篇の中には、誰かが私に悪を働いた、私に不当な行為をした、だから私はこの神に正義を訴えて擁護してもらうことを求める、という非常に個人的なものが多くあります。神ご自身に正義を求めて訴えるとは、もちろん危険なことでもあります。神はこちらを振り向いて、「そうか、あなたは正義がほしいのだね」とおっしゃるかもしれません。そうすると私たちは、そのときにはどうか憐れみもたくさんくださいと、言わざるを得なくなるでしょう。


 ともあれ、詩篇は、この神への訴えについて、非常に具体的で、ときには危険なまでに唐突でもあります。それが私個人に関することであれ、被造物全体に関することであれ、国家間のこと、特に神の民に対することであれ、詩篇が祝っているのは、すべてのことを正しくしてくださる創造主なる神という聖書的な情景です。善い創造と、神が正してくださるという善の間に私たちは住んでおり、それゆえに、私たちは神の正義とさばきを祝うのです。(4:46)





 2.王国に関するイエスの約束


 聖書に描かれているイエスを見るとき、特に共観福音書において、ある場面が彼の教えの中で突出していることにただちに気づきます。それは『神の国』です。神の国とは、イエスの時代のユダヤ世界において深く根付いていた考えで、それは詩篇にも見られますし、イザヤ書やダニエル記などにも見られます。イザヤ書やダニエル記に描かれているのは、神がついに、その力と統治を用いて、新しい方法でこの世を治めるということです。


 私は数年前、これに関して本を書きました。そのとき、ある人が私にこのように尋ねました。「神は、いつでも王であり、いつでもすべてを統べ治めておられるのではないのですか?」私は、こう答えました。「確かにその通りなのですが、聖書記者たちは、次のことをよく分かっていました。つまり神は、創造の初めから、すべてをその支配のもとに置いておられましたが、神が願っているこの世の機能の仕方は、人間の賢明な受託責任(stewardship)を通してだということです。


 ただ、賢明な受託責任とは、人間は「ノー」と言い、過ちを犯し、自分のやりたいようにすることもできることを意味します。そこで、神が支配するためにやって来るとは、神のパートナーとして、神の主権のもとで、この世を救済し、賢明に管理するはずだった、まさにその人間たちの救済措置を含むことでもあります。


 そういうわけで、やや複雑になりますが、たとえばダニエル7章などの中核にあるメッセージは、壮大なる宇宙規模の法廷に、裁判官が着席し、人間のような方、人の子のような方のために判決がくだされるということです。これは、法廷の場面、裁判の場面であり、国々は恐ろしいことを犯していたにもかかわらず、幻の中で獣に取り囲まれた人の子のような方として描かれていたこの方のために、神が擁護してくださるということです。


 この法廷の場面は、イエスの時代の多くのユダヤ人たちも知っていました。彼らが言っていたのは、要するに、「私たちは今、これを実現させてほしい!」ということでした。なぜなら彼らにしてみれば、自分たち、すなわち神の民であるイスラエルこそ、獣のような異教の国々に取り囲まれ苦しめられているのだから、早く神がやってきて、我々を救ってほしいと思っていたのです。イエスは彼らのその願いを理解しましたが、同時にこのように言われました。「それは確かに今、実現せんとしているが、あなたたちが思っていたような形では起こらない。」そしてイエスは、王国に関する民の期待を修正し、神のさばきとはどのようなものであるか、新しいビジョンをお与えになりました。


 山上の説教のような箇所で、イエスはすべてのことをひっくり返しているように見えます。心の貧しい者は幸いです、柔和な者は幸いです、義に飢え渇いている者は幸いです、平和をつくる者は幸いです、義のために迫害されている者は幸いです、なぜなら彼らは正しいことのために立ち上がったからです… しかしそれを聞く人たちは、「ちょっと待って、それは少しも幸いであるようには思えない、むしろ惨めではないか?」と思います。けれども、イエスはすべて正しくされた世界とはどのようなものであるか、続けて人々に語ります。そこでは、現時点ではみじめで低くされ、潰されているような者が栄え、最終的にあるべき位置に戻されるのだ、と。


 イエスは、神が、天で王であるように、この地においても王であるとはどういう意味であるのか、絶えず定義し直していました。それは、神が戦車を送って、反対する者たちをすべて打ち負かすということではないのです。しかし残念なことに、今日、西洋のクリスチャンたちの多くは、神の正義をそのようなものとして考えています。悪者は一掃してしまえと考えるのです。悲しいことに、私たちはそれを、政治的な状況や社会的状況においてしばしば実践してきました。しかしそうではないのです。神の正義とは、異なるモデルを持ち、それはまさに山上の説教で語られているとおりのものなのです。イエスが語っているのは、心の貧しいもの、柔和な者、義に飢え渇いている者たちが幸いであるだけでなく、このような人たちを通して、神の祝福がこの世に注がれるのだということです。


 そういうわけで、イエスは御国のアジェンダ(計画)を差し出します。それは、この世を回復する(あるべき状態に戻す)というアジェンダです。イエスは、それを目の当たりに次々と実践されました。お腹をすかせた人たちに食べ物を与え、とうてい癒されようのない慢性疾患で苦しんでいる人の世話をする、などなどです。イエスは絶え間なくこのようなことを行っていたのです。神が支配の座についておられるときは、このようなことが当たり前に行われるようになるのだということを、個人的に、目の当たりに示されたのです。しかし、この情景の中心には、ただ人々が「よし、これを行おう!」と自力でやり始められること以上に、もっとずっと神秘的なものがあることに気づかされます。なぜなら、悪の力とは、当時の人たちはもちろん、今日の人たちでさえも、想像もできないほどにもっと強い影響力を持つものだからです。それを探るためには、もう少し考える必要があります。(9:39)





 3. オネシモとピレモンの物語


 新約聖書には、私たちに向かって飛び出してくる、ささやかながらも非常に感動的な多くの人間物語があります。中でも、しばしば無視されたり忘れられたりしてきたのが、ピレモンとオネシモの話です。ピレモンへの手紙は、パウロ書簡の中でも最も短いものです。これは、ある特定の具体的な状況に向けて記されました。パウロはここで、ある問題に直面しています。それは、正義や神の目的という大きなビジョンは確かにあるが、目の前の一つの人間関係において何か非常に困った事態が起きてしまった場合には、どう対処すればいいのかということです。


 この物語はよく知られています。ピレモンは、エペソより少し内陸に入ったコロサイの町に住む比較的裕福な人でした。パウロは、ほとんど唐突と言える形で、エペソの牢獄からこの手紙を書きました。ピレモンの家には、オネシモという名の奴隷がいましたが、どうやらピレモンの家から逃げ出し、エペソまでやって来て、パウロのところにたどり着いたようでした。そこでパウロはオネシモに福音を伝え、オネシモはクリスチャンになりました。ピレモンが以前パウロから福音を聞いて、クリスチャンになったのと同じです。


 パウロにしてみれば、「これは厄介な状況だから、何もなかったことにしよう。オネシモ、君はどこかに逃げてそこで暮らしなさい。それでいいですよ」と言ってしまうほうが簡単だったでしょう。しかし、パウロにはそんなことはとてもできませんでした。なぜなら、彼は、自分の働きは和解の務めであると、かねてから自ら明言していたからです。


 実生活に当てはまらなければ、それは現実のものではない、と言われるように、神と人間が和解した、神とこの世の中が和解した、と語るのはよいですが、ピレモンとオネシモが和解できないのであれば、それは結局、和解など机上の空論にすぎないと言っているに等しいことになります。そこでパウロは、非常にデリケートで熟考された手紙を、自分は損害を受けたと思っているに違いないピレモンという人に宛てます。


 ここでちょっと横道に逸れ、当時の奴隷制についてお話しましょう。古代の奴隷制とは、近代西洋社会に生きる私たちの多くが「奴隷制」という言葉を聞く時に思い描くようなものとは、非常に異なるものです。特にイギリスでは、ウィリアム・ウィルバーフォースの素晴らしい奴隷貿易廃止運動の物語がありますし、アメリカでは南北戦争の長い記憶があります。南北戦争といえば、その底流には奴隷制や人種差別の問題があり、大西洋を越えて大勢の人たちがプランテーションなどで働くために連れて来られたという歴史があります。私たちにとって、そのような記憶にはっきりと強烈に残っている最近の歴史の外側に立って、古代世界での奴隷制がどのようなものであったかを理解するのは難しいでしょう。もちろん、古代世界の奴隷制も非人道的なものであり、私たちにとっても、イエスや最初のクリスチャンにとっても、邪悪で反対すべきものであったには違いありませんが、それでも、私たちの知っている奴隷制とは非常に異なる現象でした。


 古代世界の奴隷制では、肌の色や社会階級には関係なく、誰もが奴隷にされる可能性がありました。なぜなら当時は、戦いに負けると、軍隊が丸ごと、勝った側の奴隷にされるものだったからです。そういうわけで、古代世界においては、戦いの勝ち負けによって、誰が奴隷になるかが随時ひっくり返されていたのです。


 もう一つ覚えておきたいのは、例えばアメリカの南部だとか、何世紀も前にイギリスが発展途上国などで暴挙をなしていたときに奴隷がやらされていた仕事は、他の人たちの仕事と比べて、人間としての尊厳が失われるような類いのものでした。一方、古代世界の奴隷たちは、あらゆる場面での仕事を受け持っていました。ガソリンや風力や重油や電気などによって、今日の私たちの仕事がまかなわれるように、古代世界ではそれらの働きが奴隷によってまかなわれていたのです。


 ですから、パウロが、「いいですか、ピレモン、奴隷制は邪悪なことですから、オネシモを自由にしてあげなさい。ついでに、他の奴隷も全員解放してあげなさい。あなただけでなく、他の人たちも同じようにしなければなりません」と言うとしたら、それは今日では、私が教会でのメッセージでいきなり、「内燃エンジンは地球を汚染していることがわかっているし、電気は実質上世界を破壊しているし、私たちが通常燃料として使っているものはすべて悪いものなので、車は駐車場に放置して、自分で帰宅する方法を考えてください。そして家に帰ったら、電気をつけようだとかガス湯沸かし器を使おうなんて思ってもいけません」と言うに等しいことです。そんなことを言えば、「ちょっと待ってください、私たちは本当に同じ惑星に住んでいるのですか?」と言われるでしょう。一世紀に奴隷制は完全に廃止すべきだと言う人がいたら、これと同じ反応が返ってくることでしょう。


 中には、パウロの言動を理解するのに困難を覚える人たちもいます。もっと断固として道徳的に高い立場を取ってほしいのですが、パウロがそうしないことに、戸惑うのです。しかし、パウロはここで、もっと大きな問題を見据えています。なぜならこの問題は、その中核において、「よろしい、奴隷は解放された。それでよし!」と言うだけでは十分ではないからです。


 パウロが目指しているのは、人間の和解です。そこでパウロはオネシモをピレモンのもとに送り返します。それは、ルカ16章の放蕩息子が、父のもとに帰るのに似ています。どちら側も、次に何が起こるのか、はっきりわかりません。そこでパウロはこの驚くべき手紙を書きます。その手紙の中心には、イエス・キリストの十字架が織り込まれています。パウロは十字架に名指しで言及してはいませんが、体現しているのです。片方の腕を伸ばし、こう言います。「ピレモン、あなたは私の兄弟、福音のパートナーです。今のあなたがあるのは、すべて私のおかげですよね。」(ピレモンは、パウロの働きを通してクリスチャンになったのですから。)そしてもう片方の腕を伸ばしてこう言います。「オネシモのことをあなたにお話しましょう。彼は私の息子、私の愛する者です。私は牢獄にいる間に彼の父になりました。今、あなた方二人に、一緒になってほしいと思います。もしオネシモがあなたに負債があるなら(きっとあるでしょう、奴隷が逃げ出すときには、たいてい、いくらかの現金を持ち出すものです。オネシモもそうだったことでしょう)、その請求は私にしてください。」


 ここで、パウロのしていることがわかりますか? 和解には、犠牲が伴うのです。「二人で何とかしなさいね」と言って済むものではありません。「私があなたがたの間に入りましょう。そうやって、私があなたがたを引き合わせましょう」と言うのです。神がメシアによって、ご自身をこの世と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださったとパウロが言ったときに、彼が意味していたのはこういうことです。


 さらに、パウロはこの手紙の中で、もう一つのことを行っています。彼は、オネシモがピレモンから離されたのは、おそらく彼がオネシモを永久に取り戻すためであったのでしょうと言いました。これは、出エジプト記や申命記における奴隷制に関する律法を思い出させるものです。ここでパウロは、旧約聖書の情景を映しています。そこでは、愛されている奴隷が、主人に、「私はあなたのもとにいて幸せです。あなたに仕えることができて嬉しいです。あなたの家族の一員でいられるのは感謝です。私にとってこれ以上の幸いはありません。私はずっとあなたと共にいたいです」と言うかもしれません。


 しかしパウロは、出エジプト記や申命記を彷彿させているだけではありません。もっとずっと大きなナラティブ(物語)を喚起しています。それは、新約聖書全体の背後にあるものだと言ってもいいかもしれません。それはイエスご自身に関する主題であり、出エジプトのナラティブ自体だとも言えます。出エジプトのナラティブでは、イスラエルの神が、今やイエスによって全世界をご自身のものとされる神が、奴隷を解放する神であるということを見出します。パウロはピレモンとオネシモの和解という目の前にある問題を取り上げているのですが、パウロはそれを、イエス・キリストご自身の十字架のメッセージと方法をもって行っているのです。その背後にあるのは、そしてパウロの他の多くの文書の中にも見られるのは、まるで「自由」がそのミドルネームであるかのような、神のお姿です。その神は、すべてのご自身の民にできるだけ早く自由を得させたいだけでなく、自由がすべての世界に広がることを望んでおられます。


 そこで、ピレモンへの手紙を読むとき、私は次のことに気づきます。パウロはすべてのことを細かく定めているのではなく、私たちが直面するすべての問題の答えとなるような、道徳に関する神学書の第一章を書いているのでもないということです。彼は、種を蒔いていたのです。イエスご自身も言いました。小さな種が、ときには、鳥がやってきて巣をその枝に巣を作るような、大きなすばらしい茂みに育つこともあると。残念なことに、西洋社会ではそうなるには随分長い時間がかかりましたが、今やそうなったのですから、そのヴィジョンを失わないようにしましょう。そしてそれは、今ここで、自分たちの日々の生活において重要であるだけでなく、神がこの世界全体のために持っておられる自由の中にあって、全世界的、宇宙的にも重要なのだというホーリスティックな感覚を失わないようにしましょう。(18:21)


後半はこちら。