3月23日の記事のコメント欄があまりに長くなってきたので、こちらに私のコメントを書きます。


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りりいさん>知識も大切かもしれませんが、一度、私たちの中に刷り込まれているイメージを一掃、吟味しながら、やはりまず、神様のことばである聖書そのものを繰り返しよむこと、そこでの主との直接の交わりこそ、主が求めておられるような気がします。


 アーメンです。聖書って、実は矛盾しているかのように思える記述が少なからず出てきますよね。あちらを立てればこちらが立たずのような… それを私たちの頭で納得できるロジックで早急に整理しようとすると、どうしても無理が出てきます(神の知恵によることは、人の知恵によってではなく御霊によってわきまえるべきことだからでしょうか…)。 神学も、他の学問分野同様、時代と共に修正されていく部分がありますから、特定の教理を擁護することにこだわると、聖書全体を通して現されている神様のおこころから外れてしまうこともあるかもしれません。(だからといって、神学が人の知恵によるものだということでもなく、主の憐れみと御霊の導きによって、神がご自身を私たちに現し、私たちに理解を与えてくださるための手段として許してくださっていることだと思っています。)


 また、聖書に忠実に、と思っていても、私たちの聖書の読み方、解釈の仕方は、自分たちで思っているほど純粋なものではないかもしれません。たとえば、中世の奴隷制を推進していたのはクリスチャンたちで、彼らは聖書を根拠にしていました。


 また、西洋で発展してきたキリスト教は、そもそもかなり初期の頃からギリシャ思想の二元論的な影響を受けていたという指摘も、近年よく聞きます。(たとえば、神学者の上沼昌雄先生も、そういった指摘をずっとなさっておられます。NTライトも同様の指摘をしています。)私は神学のことは素人ですが、今の福音派では、そういった面における軌道修正が、まさになされつつあるように見受けられます。そして必ずしも最短距離ですっきり修正されていくのではなく、渦中にあってはかなりの混乱や葛藤、ぶつかり合いも生じているようです。


 過去にキリスト教の歴史の中で起こったことは、振り返れば様子がはっきり見えますが、現在進行形で起こっていることについては、自分たちもその渦中にいるので、見えにくいですよね。絶えず主のおこころを慕い求め続けること、謙遜で教えられやすい心(teachable heart)を持つことの大切さを思わされます。そして、主との交わりに加え、イエスを王として礼拝する人たちの共同体の中での横の交わりも大切ですよね(私たちが今こうして交わっているような!^^)。互いにチェックし合うことで(裁き合うのではなく)、自分の気づいていなかった側面に注意を喚起させられたりしますよね!





 晴佐久神父の件、その後私もいろいろ考えました。


 私は晴佐久神父 botのツイッターアカウントをフォローしているのですが、共感する部分も多いものの、ときどき、「あれ? これはちょっと…」というものも確かにあります。今回のmeekさんやKCEKATさんからのご指摘を受けるまでは、「あれ?」と思う部分に関して、それほど深く注意を払っていなかったのですが、たとえば、神父の「地獄に行ってみたら、大きく貼紙がしてあってね、『当地獄は、西暦33年、イエス・キリストの十字架と復活をもって閉鎖されました。収容者も全員すでに解放されています。ご質問のある方はイエス・キリストに直接ご連絡ください』」という発言とか。うーん、「地獄が閉鎖されました」は、やっぱり言いすぎですよね。多分、「地獄」の定義というか理解が、曖昧と言うか… 


 「天国(天)」に関しても似たような混乱があるかと思うのですが、死後に行く「場所」としての地獄(サタンを初めとする、神に敵対する悪と悪の力、それに積極的に追従する者たちが最終的に送られる場所)と、キリストの救いを享受していない人が置かれている状態、またイエスが教える方法に従って生きることを選ばない人(や社会)が陥る(または、もたらす)ことになる状態としての「地獄」、そのあたりがごちゃごちゃしている気がします。(私自身も、実はよく分かっていないように思います。)


 一方で、晴佐久神父は、「すべての人はすでに救われている」と言いつつも、だから信じる必要はないとは言っていなくて、逆に、「だから信じましょう。そうすれば、現実に救われる」と言っています。彼は、「信じましょう!」と、信じることをひたすら呼びかけているんですよね。私はユニバーサリズム(万人救済主義)の正式な定義を知りませんが、信じることを勧めている以上は、万人救済主義とは言わないんじゃないかなぁと思ったりもするのです… ユニバーサリストなら、「救い」のために信じるも信じないも関係ないでしょうから、そもそも伝道活動などしないのではないか、と。ですから、「すべての人はすでに救われているのだから、福音の宣言も伝道も、何も必要ない、信じても信じなくても関係ない、黙っていても皆、天国行き」という考えであれば、もちろんそれは違うと声を大にして言いたいです。


 キリストが十字架と復活によって、*すべての人に*救いの道を開いてくださったということは、聖書的事実として受け入れて構わないですよね。ユダヤ人も異邦人も、男性も女性も、どの肌の色の人も、1世紀の人も現代の人も…… だからこそ、私たちはそれを「グッドニュース」としてすべての人に知らせたい。そして、このグッドニュースを信じてほしい。それを可能にしてくださったキリストの信実に信頼してほしい。「あなたも、イエスが始められた王国で、イエスが教えてくれる恵みのリズムにしたがって生きることができる、もはや以前の生きづらさに縛られなくてもいい、罪の責めや恥に苛まされなくていい、あなたもイエスの王国に貢献する人になれる、さあ、一緒に生きていきましょう、一緒にイエスから学びましょう」と、伝えたい。それが本当に可能であることを信じてほしい。そして、これまでの生き方から方向転換して、これまでの世に支配されていた考え方とは違う、イエスの教えてくださる考え方を持って、キリストに従っていく一歩を歩み始めてほしい。(これは、すでにイエスを「救い主」として信じている、「救われている」クリスチャンたちにとっても必要なことかもしれません…)


 そのことを伝えるのに、「信じなかったらあなたは地獄に行く」なんて、たとえそれが事実でも、わざわざ言わなくてもいいと思うのです。恐怖心を煽って威嚇する人のところには、誰も寄ってこないですよね。イエスは、罪人には本当に優しかったです。一方、パリサイ人や律法学者にはとても厳しかった。イエスの厳しい言葉の多くは、罪人ではなく、自分こそ正しいと思っている人々に向けられていたことを忘れてはならないように思います。私たちがこの世に宣言したいことは、イエスを主として信じる決心をした私たちの正しさではなく、イエスがなし遂げてくださった愛の御業であり、御国の福音なのですから。


 晴佐久神父の福音について、もし誰かに聞かれたら、私なら即答はせず、「あなたは晴佐久神父が何と言っているのを聞いたのですか?」と尋ね、その返答に応じて、個別に聖書と照らして考えるかなぁと思いました。「晴佐久神父の福音」そのものが白か黒かということが本当の問題なのではないと思うから… そしてそれは、晴佐久神父の福音に限らず、誰の語る言葉でもそうかもしれない。私の言っていることも、「はちこが言っているから」というだけで、全部を鵜呑みにしないでください。考えるきっかけ、材料、くらいに思っていてください。


 そして、ユニバーサリズムとその周辺の問題については、晴佐久神父を超えて、実際のところ、神学的に深く考慮されるべき問題があるようです。たとえば、福音を聞く機会のないままに死んだ人はどうなるのか、とか、福音を聞くには聞いたけれど、その伝えられ方が神の愛と義を正しく表現するようなものではなかったため、その人が神を拒絶してしまった場合はどうなるのか、とか。(たとえば、中絶反対を訴える牧師に中絶クリニックの前で妻を銃殺された夫は、神を信じるでしょうか? その人が神を信じなかったからといって、それがその人の責任になるのでしょうか?)そして、私にはさっぱりわからないような、何やら難しいこととか。このあたりは、神学者さんや牧師さんたちにお任せしたい領域です。


 とりあえず、今日はこんなところで… (イエスを救い主として受け入れたクリスチャン、神の愛を受け取ったクリスチャンが、あまり喜びに満ちていなかったり、なおも生きづらさに苦しんだりしていると、「救いの確信」がないことに原因があるように言われることがあります。そして、「十字架」に戻るように言われたりします。でも私は、「十字架」に戻るのではなく、「復活以降」を生きる生き方を十分に教えられていないことに原因があるのではないか、と思ったりしています。そのことについては、また後日…)


追記: いろんな問題は、キリスト教の焦点が、個人の救い(=死後に「天国」に行けるようになるかどうか)にあるかのように考えることから生まれてしまっているように思います。マクナイトが、救いは福音に含まれているが、救いが福音のすべてではないと言っていたことを、改めて思います。ユニバーサリズムも、死後に地獄に行くか天国に行くか("地獄に行く人がいるのは残酷で可哀想、神は愛なのだから全員が救われるべき")、という発想から出てきているのかも? でも、神様が最後に「さばく」とおっしゃっておられるものが何なのかを考えたら、あたかも裁きがないかのように語るのは、とんでもないことですよね。ライト読書会でも、今まさにそんな話題が出ているのですが、地獄や裁きのことについては、未知のこともいろいろあるけれど、「しかし一つだけ言えることは、神が裁きをなされる時、全ての被造物はそれを喜ぶだろうということです」と、Surprised by Hopeの11章の該当箇所をまとめてくださったYさんという方がおっしゃっていたのが、とても印象的でした。