先日、二度に渡って「福音」について最近考えさせられていたことを書きました。(その1その2)ちょうど同じころ、私が世話人をしているFacebook上の「N.T.ライトFB読書会」というグループでなされていた議論の中で、古川福音自由教会の門谷信愛希(かどたに・のぶあき)先生が、私が感じていたことに通じる発言しておられました。私たちの語る福音は、聴く人たちにとって本当にグッドニュースだろうかということを考える上で、とても大切なことを含んでいると感じましたので、門谷先生の許可をいただき、こちらでもご紹介させていただきます。(二つあります。)


===転載始め===


[門谷先生の発言1] オフトピックで恐縮ですが、30代世代からの危機感として、原発とは少々違う角度からシェアさせて頂きたいと思います。私たちの世代以下世代は、私の父親世代(60~70代前半)とは根本的に異なる将来感を持っているように思います。それは私が自分の父親と話しても感じる事で、率直に申しますと「若年世代の危機感を、引退世代は全く共有していない」という厳然たる事実です。


換言すれば「当事者意識を持ってくれない」ということに尽きます。若年世代の就職危機や所得の低下のトピックを持ち出しても、全く食いついてこないどころか、問題意識を共有してくれない、という絶望的な気分を味わう事さえあります。年金にしても給料にしても、引退世代のような恩恵を自分たちも受けることはまずあり得ないだろう。ではどうやって生きるのか。考えますが妙案は浮かびません。そして、政治もそれを真剣に考えているようには見えない。大票田たる高齢者の方ばかりを向いている。その結果、若年世代は失望感を深めます。私でさえ時にそのような気分を感じるのですから、今の二十代は尚更でしょう。そして、そのような絶望的な気分が何を生み出すかについて分析しているのが以下でシェアしている記事です。


私は、原発や憲法の問題ばかりがクローズアップされる陰で、本当の意味で社会を「殺す」ことになるのは、実はこの「恐ろしいほどの世代間格差」であろうと予測しているのです。そして、私も一宣教者として、そのような時代を生きる若者達にどのように福音を語るべきかということを日夜考えています。実際、今の若い世代は「非正規」ということばを極度に恐れています。一度でも転落すればもう自分の人生は終わったも同然。そういう考え方がクリスチャン学生の中にさえ浸透している。これは私が肌で感じていることです。


グローバル経済は避けられないということがここで語られていますが、その影響を一番受けるのは若い世代です。そのことを私たち教会人は理解しているのかどうか。そして、彼らに寄り添っているのかどうか。彼らに対して私たちの語る「福音」が、「勝者の福音」になっていないかどうか。教会は、危機の時代、縮小の時代のまっただ中で、真に希望のメッセージを発しているか。いつも考えさせられているのです。


かなり脱線していますが、この世代間格差の問題こそ、本当の意味で国を滅ぼすことになりかねないと私は思っています。長期的に見れば、若い世代が減った国は衰退、ということは当たり前の理屈です。


「無敵の人」が増加する脅威」


http://totb.hatenablog.com/entry/2014/03/18/231219


「先進国を立ち枯れさせる「若者が成長できない症候群」


http://totb.hatenablog.com/entry/2014/03/05/070529


=====


[門谷先生の発言2] ○○先生、仰ることはよく分かります。そして、私の文章を読んで頂ければお分かりになると思いますが、私は別に体制批判をしている訳ではありません。ただ、このような問題に対し、「自分がその立場であったらどう考えるか」を、親身になって考えて頂きたい、と言うこと「だけ」です。想像力を働かせて頂きたいのです。


そして、これは重要な観点だと思うのですが、今の時代、すでに「牧師である」という時点で「正規雇用」である、という意識を持つことは重要だと思います。昔のような裸一貫で、アワやヒエを食べて食いつなぎながら伝道する、という時代ではありません(私が震災直後にお邪魔した岩手の被災地のある先生は、50年前の伝道初期の頃をそう振り返っていました)。殆どの教会では(特に福音派の教会では)信徒の方々の犠牲的な献げ物によって、牧師の身分は「手厚く保護されている」のが現状です。経済がどれだけ悪かろうと、教会が牧師をまずリストラすると言うことは、通常「あり得ない」ことです。それ程に牧師は「守られた世界」に生きている。件の記事の渡辺被告[はちこ注:黒子のバスケ事件の被告]のような方々を見るに付け私は、今の時代の牧師は、自分がそういう恵まれた待遇を享受していることを自覚すべきだと考えるようになりました。


ご承知のようにイエス様は「枕するところもない」生涯を歩まれました。パウロも、今で言うならば明らかに「非正規雇用」です。当然ながら保険も年金もありません。しかし逆に、放つ福音のメッセージには「力」と「説得力」があったと思います。私は、教会に時折訪れるホームレスの方や、非正規雇用に苦しむ若者達と向き合う中で、自分は安定雇用で守られていながら彼らに対しては「神様が何とかして下さる」と言わざるを得ないことに、何とも言えないもどかしさと、やりきれなさを抱えています。本当に自分の語る「福音」は、彼らに対して「福音」たり得ているのか。何をすれば、彼らにとって「福音」は「希望」たり得るのか。考えさせられています。


時に、教会によって生活の全てを賄われているという立場を、非常に後ろめたく感じ、新聞配達や現場作業を経験しながら、そこで福音を伝える方が、余程主イエスの歩まれた道に近いのではないか、と感じる私がいます。


経済が右肩上がりの時代は、何もしなくても「時代」それ自体が「希望」でした。しかし、それがかえって「真の希望」をカモフラージュしてしまったのではないか。そして教会もいつの間にか、成功の神学に取り込まれ、その語る福音は骨抜きにされていたのではないか。特に、自分たちに一度その繁栄をもたらしてくれた「自由主義経済」が、その成功の神学の土台になっているのではないか。本当にそれは聖書的なのか。実は、自分の人生経験からそう言っているだけなのではないか・・。


渡辺被告ほどではないにしろ、それに近い人々と向き合うにつれ、そう感じる事が増えてきたのです。ことば「だけ」を語ることのむなしさと言いますか、いたむ人々と「共に何かをする」ということが、現代の教会に欠けているのではないか。そう思うのです。


それは、震災とその後の支援活動を経験してみて感じたことでもあります。全国から届いた支援物資を教会近隣のお宅に届けてみた折、考えられないようなすさんだ生活をしている人が大勢教会の周りにいるのだ、ということを「初めて」知った、という現実がありました。教会はそれまで、彼らに何も出来ていませんでした。震災が、そのことをあぶり出してくれたのです。


被災地の牧師たちは、そのことを異口同音に語っています。


===転載終わり===





本当に自分の語る『福音』は、彼らに対して『福音』たり得ているのか。何をすれば、彼らにとって『福音』は『希望』たり得るのか。


 本当に、切実な問いだと思います。


 そして、


ことば「だけ」を語ることのむなしさと言いますか、いたむ人々と「共に何かをする」ということが、現代の教会に欠けているのではないか。そう思うのです。


 私もこれを、自分に欠けていることとして切実に感じます。祈らされています。祈る中で、私自身が「悔い改める」こと、つまり神の世界観、神の価値基準を、本当に自分のものとし、それに即して生きる者になることへのチャレンジを受けています。福音がこの世の人たち、特に痛みや苦しみや不安や恐れや絶望の中にある人たちにとって、「良い知らせ」としての希望となり得ていないのは、福音が宣言しているはずの神の国に、そもそも私たちキリスト者が真の意味で生きていないからではないか…そんな思いもよぎっています。 


 続けて祈ろうと思います。主よ、私たちを憐れんでください。そして、あなたが示してくださることについて、私がただ聴くだけの者となるのでなく、それに従って行動に起こせる者であれますように。





追記:N.T.ライトFB読書会に加わってみたいという方がいらっしゃいましたら、お知らせください!