先日ご紹介した教会暦カレンダーのアドベントのページに書いてあったこと。


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(この絵について)



これは、『その日には』というティモシー・ボッツの絵です。そこではイザヤ書11:6、9aが引用されており、アドベントを待つとは、耐え続けることでもあることを思い起こさせてくれます。ボッツはこう述べます。「私はこの絵を視覚的な比喩として描いた。私たちには想像しがたいほどにすばらしい時代を表現している。大文字と小文字の入り交じった陽気な書体は、この世の価値観から見れば「さかさま」だと言われることもある、天の御国を表す。私は、神の与えてくださった平安の約束を大いに喜んでいるのだ。」


神はまだ、働きを終えられていません。待降節は、約束されていたメシアの降誕がすでに成就されたことを祝うとともに、これから神が成就してくださるもう一つの約束、すなわち被造物が完全に贖われ、平和に満たされるという約束を待つ時でもあります。すべての被造物とともに、私たちはその日を切望します。その現実をイエスの中にかいま見つつ、天の御国が完全にやってきたときに神が意図しておられるような生き方で、今、共に生きることを求めます。待降節の典礼色は青です。それは、希望と、新しい日の夜明けを意味します。



 神はまだ、働きを終えておられない… 先月のスピリチュアル・ディレクションで、「希望(hope)」と「期待(expectation)」とは、どう違うのですか?と私はディレクターに尋ねた。彼は、「君はどう思う?」と逆に私に問いかけた。私は、考えながら、こう答えた。「よく分かりませんが、期待のほうが切迫感があって、何かが今にも実現するのを当然にように待ち構えている感じ、要求を突きつけている感じ、いっぽう希望は、何かが実現をするのを待っている状態により重きがあるような感じがします… Hope tells us, "Wait, it is not done yet. There is more to come"...?」


 目の前に繰り広げられるものが、どんなに悲惨なことであっても、それで終わりではない… 続きがある… 神はまだ、働きを終えておられない… 「被造物が完全に贖われ、平和に満たされるという約束」は、これから成就されるのだ… 私たちはその日の到来(アドベント)を、希望を持って待ち望んでいる。イエスが戻って来られ、この約束を成就してくださる日を。



狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。


(イザヤ11:6-9)







今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。


(ローマ8:18-25)