いわゆるFixed-hour prayers(定時の祈り)というものに、最初に関心を覚えたのが今から5年以上前だった。しかし、関心はありつつも、私の性格に合っていなかったのか、ごくごくたま~に、ふと気が向いたときだけ、オンラインのDivine Hoursのページを覗いて、ちょこっと祈ってみたりするだけだった。(気が向いたときだけでは、「定時の祈り」の意味がないけど!笑)私のように、会話的で自発的な祈りをするタイプの人は、定時の祈りや定形の祈り(成文祈祷)も取り入れるとバランスが取れていいかも、という話しは、私の霊的同伴者(スピリチュアルディレクター)にも言われていたので、関心だけはずっとあったのだけれど…(汗)


 しかし、先日、N.T.ライトの「Simply Christian」の礼拝に関する章と祈りに関する章で、written prayerをキリスト者の祈りの生活の中に取り入れることの意義について彼が力強く述べるのを読み、「興味あるな~」という状態から、「ぜひともやってみたい」に変わった。


 Written prayer(定形の祈り)とは、例えば「主の祈り」であったり、詩篇の祈りであったり、伝統的な祈祷書に記されているような祈りのこと。要するに、自発的に自分の言葉をつむぎながら祈るのでなく、すでに誰かが書いた祈りを読んで、自分の祈りとして祈ること。自分ならこんなふうに祈るとは到底思いもつかなかったような祈りに招き入れられ、とても新鮮で目が開かれる。ライトは、written prayerを用いて祈ることは、恵みのしるしであり、恵みを受ける手だてであり、また、自分の言葉による祈りでなくても自分がまさに祈りたいと思っていることを上手に代弁してくれている祈りを祈ることは、謙遜と感謝の現れでもあると言っている。


 それで、もう一度Divine Hoursのサイトを見ていたのだけれど、iPhoneのアプリとかないかな~と探していたら、似たようなものでちょっと違う、Divine Officeというカトリックのサイトを発見した。これもまた、毎日、朝、昼、夕、夜に、10~15分くらい、聖書を読み祈る時間を取ることを助けてくれるサイトだ。




 このサイトは、サイトからもアプリでも、オーディオで祈りや聖書朗読を聴くことができるようになっているのが魅力。賛美歌も毎回一曲入っている。 複数の人が朗読や祈りをしていて、聞きながら一緒に祈ったり交読すると、まるで実際に祈り会に参加しているような気持ちになる。読み手がときどきつまったり、複数で斉唱しているときに、揃っていなくてバラバラだったり、一人だけ読み間違えている人がいたりするところも、臨場感にあふれていて、リアリスティック。^^


 私はふだん、とにかく正直に感情をぶつけるタイプの祈りをするのだけれど、最近気づいたのは、そうやってrawな感情をぶつけながら自分の言葉だけで祈ろうとすると、かえって感情が高ぶって収拾がつかなくなってしまうときもあること。感情をぶつけるような祈りをする中で、聖霊が私の心をつつみ、ことばで言い表すことのできない主の平安を与えてくださることも何度も体験してきたけれど、感情がたかぶるだけで、そのまま泣き寝入りしたこともあった。


 でも、このサイトを使うと、詩篇著者の懇願や絶望や希望に合わせて祈ったり、新約聖書や旧約聖書のさまざまな箇所からの朗読を斉唱したり、鐘の音が入っていたりして、とても心が落ち着く。 聖書朗読を聴いていると、イスラエルの民に対する神様の力強い御業、愛に満ちた御業が、目の前でパノラマのように飛び出してくる感覚を覚える。


 毎回の祈りは、God, come to my assistance. Lord, Make haste to help me.という懇願で始まる。そして、Glory to the Father, and to the Son, and to the Holy Spirit: as it was in the beginning, is now, and will be for ever. Amen. Alleluiaと続き、それから賛美歌が一曲。そして詩篇などの朗読。しばし沈黙。そして結びの祈り、と続く。とりなしの祈りが入ることもある。


 Written prayerを一日に何度か祈ることを実践し始めて、自分が神の民の共同体の一員であるという自覚が強まるのを感じている。自分が集っている地域教会という共同体だけでなく、歴史を通しての、時空を超えた神の民の共同体。ずっと歴史をさかのぼり、イエス様が生まれる前に神の民が書き、神さまを礼拝するために謳っていた歌を、今、私がほかの人の朗読に合わせて一緒に祈っているという… それは、これまでの「私と神様の個人的な関係」をさらに押し広げ、神の国の共同体の一員としての神様との関係に招き入れてくれる。日々の生活の中では、確かにいろいろなチャレンジがあるのだけれど、「私の状況」とか、「私の気持ち」というのを超えた、神様の働き、ご計画、御臨在、そういったものに心が向く。「希望」というものが、困難のある今の私の状況が変わることにあるのではなく、神の国の完成に思いを馳せることに取って代えられるのを感じる。神の民たちがずっと神を待ち望んでいたように、私も、この地で、この時、彼らとともに神を待ち望む。その中に生かされていることを、思い起こさせてもらえる。この感覚は、私にとって新しいものだ。


 このことを、私の霊的同伴者にシェアしたら、「それは、君がこれまで通ってきている、信仰のdeconstruction & reconstructionのプロセスとも関係していそうだね」と言われた。それを言われたときは、あまりピンとこなかったのだけれど、今、これを書きながら、ああ、そうなのかもしれない、という気がしている。