先日、うちにエリカという同居人が来たことを書いた。これが決して簡単なことではないことは、最初から分かっていたけれど、やはり簡単ではなかった。


 エリカは、ものすごく気だての良い子なのだけれど、子どものころから安定した家庭環境を持たず、特にこの過去8ヶ月は実質ホームレス状態で、ずっと友達や知人の家を転々としていた。そのせいか、生活にストラクチャーがない。一晩中帰ってこないこともあれば、明け方に帰ってきたり、あるいは彼女の友人数人がいつの間にかうちに泊まっていたり、ということもある。夜の10時以降は、この家ではクワイエットアワーで、音楽などの音量は下げ静かにする決まりだから、と伝えてあるので、それは守ってくれているのだけれど。お友達がうちにいていいのは、夜中の12時まで、という決まりは守られていない。実害があるわけではないが、泊まっているのが男の子だったりするので、やはり気になる。


 こういうときこそ、まさに境界線の出番なのだろうけれど、難しいものを感じているのが正直なところ。というのも、我が家のルールを守れないなら、出ていってもらいます、という形で境界線を引くことには、ためらいがあるので… もしも彼女を追い出したとしたら、どうなるだろうかと考えると、現時点ではできないと思ってしまう。


 二十歳の女の子が、安定した住む場所をもたず、外をフラフラしていたらどうなるか。最近は、日本でも「ヒューマン・トラフィッキング(人身売買)」という言葉が聞かれるようになってきたと思うけれど、家出少女とか、何らかの理由で住む場所のない子が街をうろうろしていると、「良い仕事があるよ、住む場所もあげるよ」と、悪い人に声をかけられて、売春などをさせられる、ということが、当たり前のように起きているのだ。シカゴは、アメリカの都市の中でも、ヒューマン・トラフィッキングが最も盛んな都市の一つらしい。そういうことを考えると、彼女がちゃんとした住む場所を見つけるまでは、理由はどうあれ、追い出せないと思う。


 最近は、教会でもヒューマン・トラフィッキングに売られた女の子たちを救出するミニストリーをしているところや、そういう働きをする団体が増えてきている。私は個人的にはそういったミニストリーに関わっていないけれど、ハイリスクの子が目の前にいるなら、介入するのは当然の務めであるように思う。


 ただ、一つ不思議なのは、この子には隣の州に住むお母さんがいて、そのお母さんは、ちょくちょく顔を出しているのだ。昨日も、お母さんと一緒に食事に行っていたし、時々お母さんが生活費を渡しているらしい。(もちろん、うちは家賃も光熱費も何も取っていない。)先週末には、お母さんが彼女の家具をうちに運び込むのを手伝っていた。(そして、家具を誤ってうちの壁にぶつけ、壁に穴が開いてしまった… お母さんは非常に恐縮し、必ず直しますから…と言っていたが。汗)ちょくちょく顔を出すお母さんがいるなら、一緒に住めばいいのに、と思うのだけれど、お母さんが一緒に暮らしている相手が、どうも娘にはよくない相手であるらしい。このお母さんは、娘がうちに仮住まいをすることになったことについては、私には何も言わない。ただ当たり前のように顔を出し、いつの間にかいなくなっている。ちなみに、エリカの同居は、いちおう年末まで、という期間限定にはなっているのだけれど、それまでに彼女の住む場所が見つからなかった場合、もう少し延長する可能性もある。


 ああ、神様は私に何をしてほしいのだろう。イエスのように愛するというのは、何と難しいことか!


 イエスは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われた。今の私の状況は、実際のいのちを捨てているわけではないし、それにはほど遠いけれど、ある意味で、自分のlifeの一部を差し出している。そして、それは紛れもなくuncomfortableで、自分がいかに愛の薄いものであるかを思い知らされている。


 イエスに似た者に形造られたいと願い、祈ってきていたけれど、まさかこういう状況に導かれるとは。


 そしてこれは、今の私の生活の中で起こっているいろいろなことの中の、ほんの一部に過ぎない。それについては今は何も書けないのだけれど、いつか証しできる日がくれば、とは思っている。いや、でも、文章にして証しする必要もないのかもしれない。ただ、一日、一日を、いかなる状況におかれても、主の前に忠実に生きることを願っている。