あれは、確かエミが5年生か6年生のころだったので、もう10年以上前のことになる。もしかしたらこのことは、以前にもブログ(またはまだ「ウェブ日記」だったころ)に書いたかもしれない。


 数週間前、あることで祈っていたら、このときのことが思い出され、新たに示されることがあったので、メモ。


 その日、私は朝からシカゴに行く用事があり、家を7時ごろに出て、バス停に向かっていた。うちの近くにはミドルスクールがあり、バス停に行くには、学校の前の大きな通りの交差点をわたる。私は信号が青に変わるのを待っていた。隣には、ミドルスクールの生徒とおぼしき、5年生くらいの女の子が立っていた。私は急いでいたので、信号が青に変わると、ただちに小走りで渡った。私が渡りきったとき、正面からミニバンが交差点に入り、私の背後でちょうど私が渡ったばかりの横断歩道に向かって左折した。何か鈍い音と、小さな悲鳴が聞こえた。振り返ると、さきほどまで私の隣に立っていた女の子が交差点の真ん中で、道路にうつぶせに倒れていた。その隣にはさっきのミニバンが止まり、運転手がちょうど車から出てきて、女の子のところに駆け寄っていくところだった。女の子がはねられたのだ。ちょうど到着したとおぼしきクロッシングガード(いわゆる「緑のおばさん」)たちも、女の子のもとに駆け寄っていた。そうこうしているうちに、救急車も到着した。私はそこに立ち尽くして、見ているしかできなかったのだが、救急車も来たので、その場を立ち去り、バスに乗った。


 私は心がざわざわした。ちょっとタイミングがずれれば、はねられたのは私だったかもしれない。自分が守られたのは感謝と言えるが、あの女の子が守られなかったのはなぜなのか。私が守られたのは神様のおかげだと思うのであれば、神様はあの女の子のことは守ってくださらなかったことになる。


 私は目的地に着くまでの間、ずっと祈った。小さな声で、ボソボソと祈り続けた。傍からみたら、変人に見えていたかもしれない。「神様、私を守ってくださったのは感謝しますが、なぜあの女の子のことは守ってくださらなかったのですか? あなたはいつだってこういうことをなさいます。ある人は守られ、ある人は守られない。ある人は助かり、ある人は助からない。ある人の祈りは聞かれ、ある人の祈りは聞かれない。自分だけが守られたからよかったとは、思えないです。どうかあの子のことも守ってください。助けてあげてください。…」不遜な祈りだったと思う。でも、そう祈らずにはおれなかった。


 その日の午後、帰宅した長女が、学校からのお知らせの手紙を持ち帰った。朝の事故に関するお知らせだった。「今朝、学校の前の交差点で生徒が車にはねられ、救急車で病院に運ばれるという事故がありました。しかし、驚くべきことに、その子はほんのかすり傷だけですみました。本人は、すぐに学校に戻ると言ったのですが、母親が、今日一日くらいは家で休みなさいと説得したため、今日はそのまま学校を休みましたが、明日からはまた、いつものように登校する予定です…」


 私はその手紙を見て、あっけにとられた。今朝、あんなに神様に文句を言うかのように祈ってしまったけれど、神様は、ちゃんとこの子を守ってくださっていたのだ。私は、神様の善を信じずに、怒って祈ってしまったことを恥じ、神様に謝った。


 印象に残った出来事ではあったけれど、そのときはそれだけだった。


 それが10年以上も経った数週間前、別のことで祈っているとき、再び思い起こされた。そのときに示されたのは、「At the end of the day, God makes everything all right. In the meanwhile, keep praying, keep working at what you have been called for. 」ということだった。最後には、神様はすべてのことを正してくださるのだ。そのことを信じ、信頼し、あなたは祈り続けなさい。神の国が来るように、神の御心がこの地でも成るように、神の名がこの地でもほめたたえられるように、あなたは祈り続けなさい。そしてあなたが召されていることに、忠実であり続け、熱心に励みなさい。あなたの置かれている場で、思いやりと親切と憐れみの心を持ち続けなさい、と。


 しかし、頑な私の魂は、昨日、再び神様に愚痴るかのように祈っていた。この世の中には、良いこと、美しいこともたくさんありますが、残酷で悲惨なこともたくさんあるではないですか。いくら良いことを見つけてそのことについて感謝しても、悲惨なことのあまりの悲惨さに、私の心はどうしても萎えそうになるのです。せっかく良いこと、美しいことを見つけても、ピリピ4:8にあるような「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」に目を留めようとしても、それらのことが小さく見えてしまうくらい、世の中には悲惨なことがたくさん起こっているではないですか…


 しかし、憐れみ深く優しい御父は、信仰の薄い私のことをお怒りにはならず、もう一度、忍耐をもって語ってくださった。「……最終的には、わたしはすべてのことを正し、回復させるのです。今の世の中で、あなたがあちらこちらに見ることのできる良いことや美しいことは、断片的で、ささやかで、焼け石に水のように思えるかもしれませんが、それは、あなたがたが希望を失わないようにわたしが与えている、来るべき日の前味(foretaste)です。どうせ長続きはしない、どうせほんのわずかのことでしかないと疑心暗鬼にならず、わたしを信じなさい。あなたがたがイエスから学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、わたしの平安があなたがたとともにあります。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです……」


 


 ああ、主よ。私の不信仰をお赦しください。癒してください。あらゆる境遇において、また何を目の当たりにしたとしても、あなたに信頼し続ける者であらせてください。