2005年に、クリスティアニティ・トゥデイ誌に掲載された、チャック・コルソンの、「My Soul's Dark Night: The best of evangelicalism didn't prepare me for this struggle」という記事の翻訳を公開します。ずっと前に、友人たちと翻訳の練習と称して訳したものです。





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 私は福音主義の最上の教えの中で信仰を持った。32年前に福音にふれ、溢れる涙とともに回心し、熱心な祈りの仲間たちによって弟子訓練され、優れた神学者たちによって教えられてきたのだ。福音主義がいかに人々をイエスとの親密な関係に導き入れることに長けているか、私はよく知っている。


しかし、この親密さを旗印として歩んできたものの、ある日神が身近に感じられなくなったらどうだろう。そんな魂の暗夜には、何が起こるのだろうか。


 昨年、それを知ることになった。『幸いな人生(The Good Life)』の執筆を終えて数週間後、息子のウェンデルが骨肉腫と診断されたのだ。悪性腫瘍を除去する手術は一〇時間にも及んだ。私の人生で、こんなに長い一日はなかった。ウェンデルは助かったものの、今もなお化学療法を続けている。


 さらに、追い打ちをかけるかのように、今度は娘のエミリーが黒色腫と診断された。


 病院に逆戻りし、私は再び必死で祈った。その後まもなく、妻のパティが膝の大手術を受けた。私の幸いな人生はどこへ行ってしまったのか。


 病院通いと二年にわたる『幸いな人生』の執筆、そして不満を抱いていた元職員との厄介な状況に疲れ果てていた私は、気がつくと《暗闇の君》と格闘していた。奴は私たちが一番弱っているときに攻撃してくるのだ。夜になると私は、なぜこんなことをお許しなるのですかと神に問いつつ、あたりを歩き回った。孤独と動揺と恐れの中で、神を近くに感じたいと切望した。刑務所での真っ暗闇の日々でさえ感じていた、神とのあの親密さを。


 答えは九月にやってきた。私はノースキャロライナの友人宅のテラスにひとり立ち、霧の中から浮かび上がる壮大なスモーキー山脈を見渡していた。神の造り賜いしものはなんと崇高であることか。そして悟ったのだ。神を創造主として認めずにいるなど不可能だと。それ以外には現実を説明しようがない。神が存在しないなどあり得ない。


次々とやって来る苦悩の意味を理解することも、明確な答えを得ようとすることも、そんな必要はなかったのだ! 神は私の感情や感覚の産物ではない。神は神であり、私を造ったお方である。私も私の子どもたちの運命も、すべてこの神が責任を負ってくださる。神が存在し、すでに語られたことは動かしようのない事実であり、私はそこにすがるしかないのだ。


 現代の福音主義は、はたしてどれだけ私たちをこの葛藤に向けて整えてくれるのだろうか。福音派の人々の多くがこのような葛藤を経験しながらも、自ら作り上げた思い込みのせいで、それを認めるのを恐れているのではないかと思う。そのようなときには、伝統的な神学の著作に力の源を求めてはどうか。多くの人には恐らくあまり馴染みがないかもしれないが、身体的にも霊的にもさまざまな苦悩を耐え忍んできた聖人たちによる著述は力強い。


 アビラのテレサは一六世紀のスペインの神秘主義者で、『霊魂の城』の著者である。いかんともし難い数々の病に苦しみつつも、テレサはこう記した。「というのも、偉大なる神が私たちのためになさることのうち、ご自分の愛する御子の生き様に倣う人生を与えてくださることほど素晴らしいものは、ほかにないからです。ですから、このような恩恵(苦しみ)は、私たちの弱さを強めるために与えられるものに違いありません」


 迫害を受け、幽閉生活を余儀なくされた十字架のヨハネは、『暗夜』という古典を著した。ヨハネはこう書いている。「おお、かくも多くの安全と慰めに満ちた人生を歩みたいと願う魂たちよ。苦しみが神にとっていかに喜ばしいものであり、他の良い事柄を得るためにいかにそれが助けとなるかを、あなたがたが知っているならば! そうすれば何ものにも慰めを求めたりしないであろうに。むしろ、主の十字架を負うことを、大きな幸福とみなすであろうに」


福音主義の遺産の中では、清教徒やチャールズ・スポルジョンのような霊の祖先が有益であろう。スポルジョンはかつてこう書いている。「汝の神がその御顔を隠されたからとて、神はわれを忘れてしまったのだと言うなかれ。汝に神をより深く愛さしめんがゆえに、わずかに遅れておられるだけなのだ。神がやって来られしときには、汝は主にある喜びを経験し、言葉に尽くせぬ喜びに躍り上がるであろう」


 これら古くからの伝統が教えるのは、信仰は、私たちが慰めもないままに暗闇の中を思いきって歩まざるを得ないときにこそ、最も強くなるということである。


 私たちを激励する神のかすかな細い声にいつでも頼ることができるのであれば、信仰は本当の意味で信仰ではない。ある著名な牧師はかつて私に、彼はあらゆる瞬間に聖霊の臨在を感じると言った。現代の福音主義者はこれを成熟とみなす。そうなのかもしれない。しかし、不遜であるとも言えないだろうか。真の信仰とは、どこから見ても信頼する理由など見当たらないときでさえも、あえて信頼するのだ。


 神学者マイケル・ノヴァクが説明するように、真の信仰とは「主よ、あなたのみこころのままに、このことをなしてください。たとえ『このこと』が何であるか、私たちにはわからなくとも」と告白するものである。


福音主義者は、陽気な音楽や、安易な答えや、幸せな笑顔以上のものに信頼を置かねばならない。教会の宝を丹念に探り、望ましい状況のゆえでなく、いかなる状況にもかかわらず神を礼拝するとはどのようなことか、見いださなければならない。


 二〇〇五年のさまざまな出来事を通し、私の信仰は深められた。長年にわたり数えきれないほど神とその摂理を体験してきたが、暗夜もまた私の知るところとなった。そして私は理解した。神は、私の手を取ってくれる友であるだけでなく、永遠に統べ治められる、偉大にして荘厳なる創造主でもあられるということを。