9月1日の日記に、浩子さんが素晴らしいコメントをしてくださり、今私が語られていたこと、思いを巡らしていたことにあまりにドンピシャリだったので、浩子さんと私のやり取りをこちらにもメモします。あとで検索したいと思ったとき、コメント欄ははてな検索に引っかからないので…

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浩子 2013/09/05 09:12

 お久しぶりです^^
 以前あるメッセージを読んで、何かあるごとにそれを思い出すのですが、この記事を読んでまた思い出しました。
 エレミヤ20-7,12から口語訳で
「主よ、あなたが私を欺かれたので私はその欺きに従いました。あなたは私よりも強いので私を説き伏せられたのです。」7節
「私はあなたに私の訴えをお任せしたからです。」12節
という訳になっているんだけど、ここからの短いメッセージで
「私はあなたに私の訴えをお任せしたからです。・・・
 これは、神様に欺かれたと盾突き、居直ったエレミヤの最後の到達点です。なにもかも理解したうえで任せるのでは任せたことになりません。山積した未解決の問題をそっくりそのままお任せするのです。
 だまされるかもしれません。しかし信仰の勝利とは、欺かれないことではなく、欺かれても本望といった単純な信頼にあります。」

 欺かれても本望という単純な信頼・・・とても衝撃的でしたが、何かこれ以上何もないのだなと妙にほっとしたような気持になったのを覚えています。


はちこ 2013/09/05 09:35

 浩子さん、お久しぶりです!
 うわぁ、これ、今の私が置かれているところにも、ドンピシャリです。お分ちくださってありがとう!欺かれても本望…… 何と表現したらいいのか… 何かこれ以上何もない、本当に、まさにそれですね。
 つい昨日、ある友人に宛てたメールに、私はこう書いていました。

「……今私が見つめている神様、今私が服している神様は、以前の私が思い描いていた方よりも、もっと深くて、複雑で、不可思議で、得体がしれなくて、それでも、私の想像をはるかに越えて、力強くて… とにかく「神」なんだと思う。
 神の「善」とか、神の「美」とか、神の「正義」とか、きっと、私が思い描くものをはるかに超えているのだと思う。
 今は、そんなことを思わされています。
 そして、
 At the end of the day, everything will be okay. everything will be good.
 そう信じることを選ぼう、と。
 神様のdayって、私たちの知ってるdayよりはるかにスケールが大きいだろうから、いったいいつのことかは、分からないけどね。。。
 それでも、At the end of the day, everything will be okay、と。」

 何か、神様が同じテーマでずっと私に語ってくださっているのを感じます。本当に、シェアしてくださってありがとう!!


はちこ 2013/09/05 22:41

 お分ちしていただいたエレミヤの箇所が、今日一日、私の内にありました。
 欺かれても本望、でもこれ、私には「単純な信頼」とはとても呼べないかも。単純というより、いろんなところをずーっと通ってきて、いろんなものが削ぎ落されて、自分の中の偽物もあばかれて、熱い火の中で精錬を重ねて、ようやく到達するような、そんな境地のような気がする…

 エレミヤはこのあと、それでも神のことばを語ることを止められないと言い、なお主を賛美し、それでいて、自分が生まれた日を呪っているんですよね… 鬼気迫るというか…すごい。すごすぎる。


浩子 2013/09/06 09:37

 私も「単純な信頼」って表現に違和感がありました。それに、欺かれても本望なんて、肉ある限り心底から言える時があるんだろうかとも思った。
 でも、それならなんで私はホッとしたのか・・・?というと、御言葉の通りに「ただ信ぜよ」ってことを実践することはとどのつまり神業なことで、肉ある限り、完全に信頼することなどできない、もう降参だ!だから信じることを選ぶけど、あとは神様に任せるしかない、任せるからには信頼する、そして、これ以上はない信頼するに足る方を信じて裏切られるんならあきらめもつくよね・・・不謹慎で的外れな捉え方だったかもしれないけど、私の正直な心の声はそうだったと思います。


はちこ 2013/09/06 16:49

 そう、「降参」。私もそれがキーワードであるように思います。サレンダー。明け渡し。降参。
 以前、デイブ・ドラベッキーという、アメリカの元プロ野球投手の話しを書いたことがありました。


 彼は投手でありながら、利き腕をガンに冒され、マウンド復帰は不可能と言われました。それでも奇跡的に癒され、復帰します。彼は記者団とファンを前に、腕を癒してくれたのは神ですと大胆に証しし、主の御名を公の場でほめました。ところが、そのわずか数日後、ゲームの最中、衆人環視の中で、彼の腕が折れたのです。実はガンが進行していて、結局腕は切断することになり、彼は引退しました。引退記者会見のとき、記者の一人に、「あなたの神はどこへ行ったのですか?」と言われました。
 彼なんてまさに、「あなたが私を欺いたので、私は欺きに従いました」の心境だったのではないかと思います。英語の聖書のある訳では、

 O Lord, you have deceived me,
 and I was deceived;
 you are stronger than I,
 and you have prevailed.
 I have become a laughingstock all the day;
 everyone mocks me. となっています。

 そして、このようなことは、実は必ずしも珍しくないと思うの。神に祈り求めて、奇跡と思えるような形で祈りが答えられて、ところが、答えられたと思ったのに、その後、その祈りの答えが取り去られる… そんな話し、少なからず聞いたことがあります。長い間仕事を求めて祈って、ついに与えられたので感謝してその証しをしたら、直前になってその仕事の話しは取り消しになってしまったとか、不妊の夫婦が、子どもを求めて祈っていて、何年も祈り、待った結果、ついに与えられた子どもが、3歳のときに交通事故で亡くなってしまったとか。アブラハムだってそうです。ようやく与えられた約束の子イサクを捧げるように言われたとき、神に欺かれたかのように思わなかったでしょうか…

 こういったことにずっと思いめぐらしていて、今私に言えることは、神は神であるということ。神は、私たちよりも、強く、私たちの上におられるお方であるということ。そしてこの神は、私たちの理解を超えてはいるけれど、それでも、善で、真実で、正義で、そして美しいお方であることには間違いないのだということ。わからない。理解はできない。でもそうなんだと思う。私たちはそのような神の前に降参するしかない。でも、大騒ぎして、抵抗して、それでもついに降参したとき、私たちの理解を超えた神の平安が、私たちを包んでくださるのだと、今、そんなふうに思っているところ……



jeremiah

エレミヤ(ミケランジェロ)