今、毎日義母の病室に通っているが、私が来る前まで時々見舞っていてくれた夫の従姉が、ある記事の切り抜きを私宛に残しておいてくれた。 この従姉とは10数年前に義父のお葬式のときに会っているが、ほとんど覚えていなかった。今回、4月に再会し、いろいろお話することができた。唯一東京にいる親戚として、義母のことも何かと気にかけてくださっている。彼女はもう60代だけどとてもお元気で、今はペルーに一ヶ月、山登りに行っている。


 その従姉が残してくれた記事は、5月19日付の東京新聞に掲載された、「〈あの人に迫る〉 ホスピス医 徳永 進さん」というもの。調べてみたら、ネット上でも全文読めることがわかった。もともとは中日新聞に掲載されたものらしい。








 臨床はだいたい矛盾することで成り立っている。生かすか死なすか何もしないか。せめぎ合いです。相反するものを両方持って初めて臨床なんです。…臨床では「正しい主義」というものがなくなるんです。在宅治療がいいか、ホスピス、病院がいいかの問題にしても、人によって違うし、がんの種類、何カ月目か、刻々と場所、人によって違ってくる。


これまで何人くらいの死を見てこられましたか。ご自身はどのような死を望みますか。


 たくさんです。私たちの数え方は1、2、3、たくさん、です。よく聞かれるんですけどね、人の死を数えてはいけない。数で自慢しとる場合じゃないだろうと言われたことがあって、数えなくなりました。たくさんいました。皆さん立派でした。幸せな死とそうでない死を分けるものはない。ま、戦場の死は幸せとはいえないし、殺害なども。でもがんに限って言うと、苦しんで七転八倒して亡くなった死を不幸せとは思わない。薬を投与されながらおだやかに亡くなった死を美しいともいわない。幸せ、不幸せはなくて、感じるのは「その時を迎えましたね」、という平等性くらい。個々の死から教えられることはいろいろある。そこに(いい、悪いの)ジャッジは入らない。


臨床医の心得みたいなものは。


 一生懸命ぼんやりとしていることですね。これがいいといって押しつけることはできない。選択肢として提供するのはいいけどね。本人とか家族がいいということを大事にしていくと、思わぬ道ができてくるんだ。ぼわー、とぼんやり立っている。するとボールが来る。それをどうしよ、どうしよと言っていると道はできる。それをうちはこういう主義です、と決めつけるとボールは破砕されたり爆発したりする。臨床はいつでも何がどうなるか分からないものです。



 このドクターは、「矛盾」という言葉を使っているけれど、「言っていることとやっていることが矛盾している」と言うときの「矛盾」というより、むしろ、私がここしばらく何度か言及している、「テンション」に通じるかもしれないと思った。つまり、物事には、人のいのちには、白か黒か、正しいか間違っているかでは断定できないことがある、ということ。そして、このドクターの言う、「一生懸命ぼんやりとしていること」とは、「意図的に手を放し、神にゆだねる」ことに通じる気がした。あるいは、霊的形成的に言うなら、「自分の中で神様に働いていただくためのスペース作りをすること」かな…


 


 生きるということは、概念や理屈ではなく、まさに臨床だものね… そういえば、先日読んでいた村上春樹本の中で、臨床心理士の藤掛先生も、これに通じることを述べておられた。それは、「選ばない」ということ。自分の中に矛盾するものがあるとき、どちらか一方を選んで片を付けるのでなく、どちらも自分の一部であることを認め、統合していくこと… そしてそれは、私たちが自力でできることではなく、聖霊の助けなしには到底できないのだと、最近、しみじみ思うようになった。


 「選ばない」という選択、「テンション」という(神の奥義に)ゆだねた状態。あはは、これもまた、「矛盾」してますね。^^


 昨日は、義母とホスピスの面談に行きました。でもね、今の義母はとても具合がいいのです。顔色もよく、体重も戻ってきました。ドクターは、「今がいちばん体調のいいときでしょうから、もっと良くなるまで待とうと思わず、やりたいことは今のうちにやっておくといいですよ」とおっしゃった。


 ガンだからとか、余命を宣告されたから、とかではなく、「今」を大切に生きることは、すべての人の務めだと思うから、だから義母にもーーそして私もーー「今」というプレゼントを味わいながら、精一杯、生きてほしいです。