鹿子さん経由でFacebookでもシェアしたのですが、私の中で保存版にしておきたいと思ったので、こちらでもシェアします。


 内田樹氏のブログより。








天賦の才能というものがある。


自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。


「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。


外部からの贈り物である。


 ……


才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。


私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。


「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。


そこまで内面化した才能はもう揺るがない。


でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。


才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。


他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。


 ……


才能がもたらしたアドバンテージは「私有物」ではない。だから、返礼をしなければならない。


ただし、それは「贈与者に直接等価のものを返礼する」というかたちをとらない。


とりあえず相手は「天」であるから、返しようがないということもあるけれど、あらゆる贈与において、「最初に贈与した人間は、どのような返礼によっても相殺することのできない絶対的債権者である」というルールがあるからである。


世界で最初に贈与した人間が「いちばんえらい」のである。


 ……


この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。


自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。


そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセスなのである。


才能はある種の贈り物である。


 ……


贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。


そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。


天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。


その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。


 ……


自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。


「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。


自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。


 ここで内田氏が言っている「天賦の才能」とはまさに「賜物」のこと。驚くほど聖書的ではありませんか。以前にも書いたけれど、内田樹氏はユダヤ人哲学者でありタムルード*1学者であるレヴィナスの研究者。レヴィナスの思想の影響を受けているのでしょう、内田氏の語ることは、クリスチャンが聞いても、うなづけることがたくさんある。


 「(才能を)世界で最初に贈与した人間が『いちばんえらい』のである。」これなんて、まさに神様のことだし。神様から預けられたものを他者のために用いるなら、その人にはますますそれが増し加えられ、用いない、あるいは自分のためにしか用いないなら、やがてそれは枯渇していく… 内田氏は、人間とはそのようにできているのだとおっしゃるが、それは、神様がまさにそのように定められたからですよね。私たちは他者を祝福するために作られた…。それが人間らしくある生き方なんですね。




*1:トーラーと並ぶ、もう一つのユダヤ教の聖典。ウィキペディアによると、「モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群。」