先日ご紹介した上沼先生の記事の中にあった「Faithful Presence」というフレーズがとても気になったので、検索して調べてみた。すると、Christianity Todayのこの記事が出てきた。To Change the World: The Irony, Tragedy, and Possibility of Christianity in the Late Modern WorldというJames Davison Hunterによる本の書評記事だ。




 この書評によると、本書は3つの随筆から成り立っていて、一つめは「文化」について考察し、アメリカのクリスチャンが伝道、政治活動、社会改革によって社会を変えることはできないと論じる。著者の考えでは、伝道や政治活動、社会改革によって社会を変えることができるという考えの根底には、「文化というものは諸個人が持つ価値観によって成り立つ」という概念があるが、そもそもそのような前提がすでに間違っているということらしい。


 二つめの随筆では、アメリカにおけるキリスト者の政治活動(いわゆるキリスト教右派、キリスト教左派、新アナバプテストなど)を評定し、今日の教会の公衆に対する証は政治的なものとなってしまったと論じる。


 三つめの随筆では、ではキリスト者はどのようにこの社会・文化に関わっていけばよいのかという点を論じ、新しいパラダイムを提唱し、それをFaithful Presence と呼ぶ。(こういうキーワードの翻訳は難しいので、とりあえず英語のままで。)



Faithful Presence とは、文化を変えることではなく、ましてや世界を変えようというものでもない。そうではなく、キリストの弟子を作り、公益に仕えるために、個人と社会制度が共に働くことを強調するものである。ハンター(著者)は次のように言う。「我々がこの世と関わることで慈善的な結果が生まれ得るとすれば、それはこの世をより良いものに変えようといった願いから出るものでは決してないだろう。むしろ、すべての良いもの、美なるもの、真実なるものを造られた創造主に敬意を払いたいという願いの表現として、神への愛から出た従順の現れとして、汝の隣人を愛せよという神の戒めの成就として、もたらされるのである。」



 アマゾンの本の説明にはこうある。



ハンターは、今日のクリスチャンの間でもっともよく観られる『世界変革(world-changing)』のモデルを鋭く評価するところから始め、それがいかに本質的な誤りを含んでおり、したがって彼らが望んでいる変化をもたらしようがないことを強調する。


 「変化」には「力」が伴うので、結果としてキリスト者は皆、政治的な関わりのための方策を模索し、それを用いようとすることになる。


 ハンターは、チャールズ・コルソン、ジム・ウォリス、スタンレー・ハワーワスといった信望の厚いリーダーたちをやり玉にあげ、キリスト教右派、左派、新アナバプテストらの政治的神学を手厳しく批判する。そして、こういった政治神学は、自分たちが解決するつもりの問題を解決するどころか、往々にして悪化させてしまうものであると論じる。


 では何が求められるのかといえば、キリスト者がそれとは異なるパラダイムにのっとってこの世と関わっていくことだと言う。ハンターはそれを、「faithful presence」と呼ぶ。「faithful presence」とは単に個人的なものにとどまらず、制度的なものでもあるキリスト者の理想的な日々の行い(an ideal of Christian practice)である。あらゆる人間関係で、さらには仕事を初めとするあらゆる社会生活において、実践され得るモデルである。ハンターは、「faithful presence」の実践によってどんなことが実現可能になるのか、大小さまざまな現実生活における例を掲げる。いかにも野心的などんな試みよりも、「faithful presence」の実践こそ、実際に多くの実を結ぶことができ、模範となり、変容をもたらすことが可能なのであると、ハンターは論じる。




 うーん、とても興味深い。日本でも、原発や、憲法改正など、政治的にも非常に気になる問題が 次々と出てきている。キリスト者としてどのような形で関わっていったらいいのか、考えさせられるところだ。


 イエスが私たちに示されたやり方は、明らかに、政治的な力を得ることによってこの世に変化をもたらすものではなかった。力を得るどころか、まったく力のないものとなられた。それを、今日の私たちはどのように適用し、実践したらいいのか… この本、読んでみたい。