HGBK読書会でキリストの「苦しみ」に与ることについて、ピリピ3:10-11を指摘していただいた。そのあとの12-14節にも励まされたので、合わせてメモ。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(This means knowing him, knowing the power of his resurrection, and knowing the partnership of his sufferings. It means sharing the form and pattern of his death, so that somehow I may arrive at the final resurrection from the dead. [Kingdom New Testament訳])
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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