とりあえずメモのみだけれど…

 NTライトのHow God Became Kingの中で、苦しみと神の国の関係について触れられていて、しばらく思いを巡らせていた。ライトは、苦しみ(キリストの十字架の苦しみも、またキリスト者の苦しみも)は神の国に至るためには避けられない暗い通り道、というだけのものではなく、苦しみ自体が、神の目的が成就するために不可欠なものであると言っている。

 まだモヤモヤしていて、うまく言葉に現すことができないけれど、私たちは神の栄光、神の国というものを、ものすごく誤解していたのではないかという気がしている。イエスご自身があれほど、神の国はこの世の常識とは反対だと教えておられたのに、それでもやっぱり、この世の常識、この世の期待を通して思い描いていたような気がする。

 「神の栄光」というものも、当然のように光り輝く神々しいものを考えていた。NTライトは、十字架はイエスが王となる「就任」式だったと言った。就任式は通常、まさに栄光に満ちた華々しいものだと思うけれど、十字架は華々しさとはかけ離れている。しかし、十字架こそ、神様の考える「栄光」だというのなら… 私は、「あなたのご栄光を見せてください」(出エジプト33:18)とずっと祈ってきたのだけれど、私が見ようとしていたものは、神様が見せてくださろうとしていたものとは、まったく違っていたのかもしれない… 違うものを求めていたのかもしれない…
 上記の記事は長いのだけれど、読んでみる価値のあるものだった。キリストの苦しみと憐れみと贖い…… 遠藤周作の『沈黙』、恥ずかしながら読んだことがなかったが、この記事の中の要約を読んで、またその背後にある遠藤の思いを知って、それが今日の私たちにもどれだけ深い示唆を持つものであるかに気づき、打ちのめされてしまった。

「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」ルカ24:26

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