今、ウチの教会でGracenomicsという神様の恵みに関するメッセージシリーズを行っています。一言で言えば、たとえ私たちが失敗しても、神様の恵みはセカンドチャンスをくださる、というメッセージ。


 パスターの個人的な証も交えた、とてもパワフルなメッセージです。英語の分かる方は動画で、そうでない方は、下の日本語要約をぜひご覧ください。



Gracenomics Part2 W1 from PV Media Sermons & Worship on Vimeo.


 メッセージの内容を、日本語で要約します。


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 私たちは皆、神様から素晴らしい可能性を与えられています。神様は私たちの人生に、素晴らしいご計画を持っておられます。神様がアダムとエバを創造されたときも、二人が神様の召しをまっとうするのに必要はものを全て備えられていました。二人には、神様のご計画を成就するためのすばらしい可能性がありました。にもかかわらず、二人はその可能性を潰すようなことをしてしまったのです。人間の歴史とは、その素晴らしいご計画をフイにしてしまった私たちに、神様がセカンドチャンスを与え続けてきた歴史とも言えるでしょう。


 サムソンは、イスラエルに王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた時代に、不妊の両親のもとにナジル人として生まれた奇跡の子でした。ふつうはナジル人とは自分から志願してなるものですが、サムソンの場合は、母の胎にいたときからナジル人となるべく定められ、イスラエルをペリシテ人の手から救い始める者として神からの特別な召しを受けていました。さらに、主はサムソンを祝福し、主の霊が彼の上に注がれると、彼は怪力を発揮することができました。神はサムソンを裁きつかさに召しておられました。彼は素晴らしい働きをするはずの人物だったのです。


 ところがサムソンときたら、自分のしたい放題にしていました。神の働きのために聖別されたナジル人でありながら、ペリシテ人の娘を妻に欲しがったり(「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから」)、獅子の死体に手を突っ込んでその中にあった蜂蜜を取ったり、主の霊によって与えられた怪力で、妻や義理の父を含む大勢の人を殺したりしました。


 その後ペリシテ人がサムソンを襲ったとき、主の霊が彼に臨み、彼はろばのあご骨で千人を打ち殺しました。そして彼が喉の渇きを覚えて神に泣きつくと、神は彼のために水を湧き出させ、彼はそれを飲んで元気を回復しました。こうして、サムソンは、イスラエルを20年間さばきました。(士師15:20)


 サムソンは、神からの召しに逆行するような行動をとっていたにもかかわらず、ご自身の民を助け出したいと願っておられる神は、サムソンを用いられました。サムソンが神の御心にかなう素晴らしい人物だったからではなく、ご自分がなさろうとしておられることを遂行されるために、サムソンの不従順にもかかわらず彼を用いられたのです。


 神はご自分が用いようと思われる者を、たとえそれが弱くて壊れた器だったとしても、自分のことしか考えない身勝手な者であったとしても、用いることができます。神は何でもできるお方だからです。しかしだからといって、私たちもサムソンのようであっていい、という意味ではありません。サムソンは、神の召しをまっとうするために必要なものは全て備えられていたにもかかわらず、それ以上のものを欲しがり、それが落とし穴となりました。


 彼が喉の渇きを覚えたとき、神はその必要をご覧になって、水を湧き出させ、彼を満たしてくださいました。にもかかわらず、サムソンはそれだけでは自分のニーズは十分に満たされていないと感じ、遊女のところに行ってしまいました。


 さらに、彼はデリラという女性と出会い、彼女にすっかり惚れ込みました。サムソンはデリラに惚れ込んだけれど、デリラのほうは、実はそうでもなかったのでしょう。ペリシテ人の領主たちに「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか見つけてくれたら、銀千枚をあげよう」と言われると、早速その話に乗りました。サムソンは最初は彼女にせがまれても自分の力の秘密を教えなかったものの、あまりにもしつこくせがまれ、「私を愛してないのね」と来る日も来る日も責め立てられたため、いたたまれなくなって、ついに秘密を教えてしまいます。サムソンの力の秘密を知ったデリラは、彼を自分のひざの上で眠らせ、人を呼び、その髪の毛をそり落としてしまいます。そして彼の力は、彼を去りました。


 力を失ったサムソンは、あっさりとペリシテ人の手に落ち、目をえぐり出され、青銅の足かせをかけられ、牢につながれ、臼を引かされる羽目になります。


 奇跡の子として生まれ、神の特別な召しを受け、主の霊による力までいただいていたのに、サムソンはそれをすべてフイにしてしまったのです。客観的に見ると、実に愚かしいことのように思えるでしょう。自分に与えられていないものを欲しがる情欲のために、神様が与えてくださっていた素晴らしい計画を台無しにしてしまうなんて! 


 しかし、私たちも、実は似たようなことをしているかもしれません… 私たちもまた、神によって与えられたすばらしい可能性を持ってこの人生を始めたはずなのです。神は、私たちのことも、目的を持って造り、いのちを与え、この地上に神の国を実現させるための素晴らしいご計画の一部として私たちを用いられようとしておられるのです。そして、私たちがその働きを達成させるために必要なものは、神様はすべて備えてくださっています。それなのに、私たちもまた、サムソンのように、自分に与えられていないものを欲しがるという、「むさぼり」に堕ちてしまうことがないでしょうか…? サムソンのように、セカンドチャンスを、神の恵みを、必要としていないでしょうか?


 もしかするとあなたは、せっかくの神様のご計画にもかかわらず、自分の庭の芝よりも青く見える隣の芝を欲してしまった結果、誤った選択をし、のっぴきならない状況に陥ってしまっているかもしれません。情欲、不倫、権力、お金…そういったものに負けて、神様がくださった可能性を潰してしまったかもしれません。情欲は、神が備えてくださった人生の範囲の外へ、私たちをおびき出します。情欲とは、性的なものに限りません。何であれ、神が与えてくださった以上のものをむさぼることです。そうやって神が備えてくださった人生の外に出てしまうとき、私たちに与えられていた可能性は潰されてしまうのです。そうならないためには、どうすればいいでしょうか? 神はどのようにして、この情欲の力を打ち壊してくださるのでしょうか?


 次のことを覚えておいてください。




  • 情欲は私たちの意識を散漫にするが、神は私たちの意識をフォーカスさせる。


 情欲に打ち勝つためには、ただそれを考えないようにすればいいというものではありません。悪いものの代わりに、良いもので私たちの思いを満たす必要があります(ピリピ4:8)。 頭の中で考えているだけで、行動に移さなければ大丈夫、というものではないのです。思いの中で自分の情欲が欲するものを求め続けるなら、私たちは決して満足できない者になってしまいます。むしろ、神の国とその義を求めましょう。唯一そのことだけに私たちの思いをフォーカスさせるなら、すべての必要なものは与えられます。




  • 情欲は私たちを辱めるが、神は私たちを回復してくださる。


 サムソンがペリシテ人に捕らえられ、足かせをつけられ牢の中で臼を引いていたとき、ペリシテ人たちはどれだけサムソンをあざけり、辱めたことでしょうか。しかし、その辱めの最中にも、神はサムソンにあることをなさっておられました。



しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。(士師16:22)



 どうしようもないような大失敗をしてしまった後でありながら、サムソンの頭の毛は、再び伸び始めていました。


 神の恵みは、私たちが失敗しても、何事もなかったかのように元通りに戻ることができるという意味ではありません。神の恵みは、私たちの行動、選択がもたらした「結果」を帳消しにしてくれるという意味でもありません。神の恵みが意味するところは、「あなたの頭の毛は再び伸び始める」、ということです。


 情欲に従って自分のものではないものを追い求めるのなら、いずれは大変な目に合い、屈辱を味わうことになるでしょう。しかし神の恵みは、私たちをそこからも回復させてくださることができるのです。


 神の恵みは、私たちが失敗し、汚れ、ボロボロになってしまったとき、「おまえなどもういらない」とは言いません。神の恵みは、失敗し、汚れ、ボロボロになってしまった私たちを御もとに引き寄せ、ご自身の腕の中に抱き取り、私たちを回復させてくださいます。あなたが失敗するとき、イエスこそあなたを再び立ち直らせ、回復させてくださるお方です。そして、神が回復してくださる人生は、以前と同じ人生ではなく、御霊によって歩む新しい人生、御霊の実に満たされた人生です。(ガラテヤ5:16, 22-23)


 私(このメッセージをしているパスター)は、失敗知らずの者としてこれを語っているのではありません。髪の毛がもう一度伸びた者として語っています。


 私は高校生のころ、牧師になる召しを受け、クリスチャン大学に進学し、さらに神学校へ進みました。しかしその中で、学びのストレスなどに負け、気づいたときにはポルノに捕らえられていました。2002年のことです。それは、私の結婚生活を破壊していました。もしそのとき私に子どもがいたなら、子どものことも破壊していたでしょう。神はそんな私にこう語られました。「わたしはあなたをもっと大きなことのために造ったのに、ごらんなさい、あなたの生活がどんなことになってしまっているか」


 私はそこから抜け出すためにカウンセリングを受け、助けを得ました。この10年間、私はもはやポルノには捕らえられていません。自由になりました。これは、私が自力でできたことではありません。すべて神様の御業です。


 私がこの話をしたのは、情欲の力がどれだけリアルで、破壊的なものであるかを、身をもって知っているからです。私たちを滅ぼそうとするこの情欲の力に、終止符を打たねばなりません。統計によると、三人に一人の牧師は、ポルノ依存の問題を持っているそうです。93%の男の子と63%の女の子が、18歳になる前にインターネットでポルノを見ているそうです。これはもはや、男性だけの問題ではありません。私たちは自分に正直になる必要があります。そして、互いに説明責任を負い合って、支え合わねばなりません。


 神の恵みは、二度と失敗を繰り返すことはないという意味ではなく、同じ失敗を繰り返す必要はない、という意味です。そのための助けも、用意されています。もし皆さんの中に、インターネットポルノで悩んでいる方がいましたら、ぜひこのソフトウエアを入れてください。(www.x3watch.com) この教会のスタッフは、全員これを自分のパソコンに入れています。もし問題のありそうなウェブサイトにアクセスしたら、ほかの人にそれがメールで連絡されるようになっているのです。情欲の力には独りでは戦えません。あなたと共に立ってくれる人を見つけてください。


 サムソンの話に戻りましょう。彼のストーリーは、ハッピーエンドではありません。関心のある人は、士師16章をお読みください。彼は、最後に確かに偉大な働きをするのですが、その過程において、滅ぼされます。けれども、私たちはサムソンのようである必要はないのです。サムソンの結末を、あなたの結末にしないでください。もし情欲があなたを悩ませているのなら、今こそ、戦うときです。ほかの人にも一緒に戦ってもらうときです。デリラから遠ざかりましょう。


 エスキモーは、オオカミから身を守るために、おもしろいことをします。大きな狩猟ナイフに動物の血を塗り、凍らせます。それからもう一度そのナイフを血に浸し、また凍らせます。ナイフの刃先がすっかり見えなくなるまでそれを繰り返してから、刃先を上にしてそのナイフを地面に刺します。夜になると、血の匂いを嗅ぎ付けたオオカミがやってきて、そのナイフをなめます。血の味に喜んで、オオカミはさらになめます。そのうち、刃先が出てきて、オオカミの舌を傷つけるのですが、血の味に夢中になっているオオカミは、いつの間にか自分が、自分の血をなめていることに気づきません。そうやってなめ続けているうちに、オオカミの舌は切り裂かれていきます。そして翌朝エスキモーが外に出てみると、オオカミの死体がそこに横たわっている、というわけです。


今朝、皆さんの中に、ナイフをなめている人がいるかもしれません。神様があなたに与えることを意図していなかった、神から目をそらした、壊れた人生の中にいるかもしれません。自分が追い求めているものにあまりに夢中になって、尖った刃先が見えていないのです。


イエスは言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」あなたが負っている重荷は何でしょうか。それは、神があなたに意図していたものでしょうか。ポルノなど何らかの依存を隠そうとする重荷、不倫を隠そうとする重荷、より高いところに上っていこうとする重荷でしょうか…


「来なさい。そのままの姿でいいから、わたしのところにきなさい。自分で問題を解決してからと思わず、今すぐ、そのままで、わたしのところにきなさい。」イエスは待っておられます。「ナイフをなめ続けるのを止めなさい。あなたは、もっと大いなるもののために造られたのですよ」そしてあなたがイエスのもとに座るとき、イエスは小さな鏡を取り出して、こうおっしゃるでしょう。「ほら、ごらんなさい、あなたの髪の毛は、すでに再び伸び始めていますよ