思うところあり、ちょうど1年前(2011年2月27日)の記事を再掲します。


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 金曜日の晩と土曜日の一日、うちの教会で持たれたRenovation of the Heartリトリートに行ってきた。名前が示すとおり、ダラス・ウィラードの「Renovation of the Heart(邦訳:「心の刷新を求めて」あめんどう)」という本をベースにしたもの。このリトリートに行くのは実は2度目。一回めは、調べてみたら2008年の4月だった。前回に比べると内容もいろいろ工夫され、今では毎年行なわれる、うちの教会の定番セミナーになっている。インタラクティブにするため、一回に参加できるのは50人くらいまで。


 メッセージとか講演のように一方的に語られるのでなく、5~10人くらいずつのグループごとに座り、パスターのプロンプトに従って、自分で考え、グループで分かち合いながら話しが進んでいった。いくつか私の中で特に印象に残ったことを以下にメモ。


-「神を信じるのが困難に思えるのはどんな時か?」→(皆のレスポンス)子どもや愛する人がガンになったとき、祈っている状況がいつまで経っても変わらないとき、現状にどうしても解決の道がないように思えるとき、自然災害で大勢の人が亡くなったとき… When we don't believe in the God that Jesus believed(イエスが信じていた神を私たちが信じないとき)、神を信じるのが困難になるのではないか、とパスター。WWJD(イエスならどうするか)ではなく、WDJBAG (What Did Jesus Believe About God) 。イエスが御父について持っていた神観、神像を持つこと。


-では、イエスが御父について持っていた神観とは? 「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」(ルカ15:31 放蕩息子の父が、兄に言った言葉) このことを私たちはどこまで信じることができるか。私たちの神観は、どれだけイエスの神観と一致しているか。


-「魂の闇夜」 いくら祈っても、いくら聖書を読んでも、いくら教会に行っても、神の御臨在が感じられなくなるとき。遅かれ早かれ、誰でも体験しうること。アメリカの教会ではよく、「When you feel distant from God, guess who moved?(神が遠くに感じられるとき、離れていったのは誰のほうか?)」というが、この標語が暗に意味するのは、「神があなたから離れたのでなく、あなたが神から離れたのだ」ということ。しかし実際のところ、神は、時にはご自分から離れて行かれることがある。なぜなら、神は私たちの信仰を自分の感覚(フィーリング)や感情に依存させてほしくないから。私たちを成長させるため。


-Outcome(結果)をコントロールしたいという思いを手放すこと。


-イエスのこの地上での人生は、happiest, richest, most fulfilled lifeだったと言えると思うか? イエスの弟子として自分も同じような人生を生きたいと思うか? →皆でディスカッション。私の考えは、「人間的な基準から見たら、必ずしもhappiestだったとは言えないかもしれない。物質的・経済的には決して豊かではなかったし、いわゆる安定した暮らしをしていたわけでもないし、結婚もしなかったし、社会的地位のある人たちからは逆恨み的に妬まれたし、あげくに信頼していた友人からは裏切られたし… 表面的なところを見るなら、はっきりいって、そういう人生を歩みたいとは思えない。しかし、イエス様は確かに『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ』という御父の言葉を信じ、その約束から目を離すことなく、御父の御臨在の中で生きておられた。その意味では、私もイエス様に倣う者として生きたいと思う。そして、そういう生き方をしているなら、暮らし向きがどうのとか、そういうことは関係なくなるのだろうと思う(まだまだそこまで思えるようにはなっていないが)」


-「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(ヨハネ4:14)」 自力で一生懸命頑張るのでなく、内側からわき出る生ける水の川(ヨハネ7:38)をせき止めず、その流れの中に身を委ねること。どのように? 恵みを受け取り、自我を外に(Let grace in & take ourselves out)出すよう、自らを訓練する(「霊的修練」)。Don't try harder, but TRAIN.たいていの人は、一生懸命頑張ったところで腕立て伏せを100回することはできないが、適切に訓練すれば、ほぼ誰でもできるようになる。霊的にも同じこと。


-霊的修練とは、私たちをより清いクリスチャン、より優れたクリスチャンにするというわけではない。それは、単に、恵みへのアクセス。


-すべての人は、それぞれユニークな存在として作られており、神様とコネクトする方法も、人によってさまざま。一般に、「牧師」は大学卒業後、さらに神学校で学んでからなるものなので、概して本を読んだりノートを取ったりという方法が向いている、あるいは慣れているという人が多い。そのため、聖書や信仰書を「読む」、ジャーナルをつける、礼拝の最中にはノートを取るといったことが奨励されることが多いが、そういう活動をしようと思っても、どうしても長続きしないという人がいるのは当然のこと。霊的修練と呼ばれるものにはいろいろあり、すべての方法がすべての人に同じように有益であるわけではない。自分に合ったやり方を見つける。


-私たちの感情は、私たちの思い・思考に左右され、行動や習慣も、それによって左右される。したがって、それぞれの領域を神の恵みに開かせるような霊的修練をするとよい。