この前の日曜日の礼拝メッセージは、ゲストスピーカーによるものだった。このゲストは、シカゴ近郊の教会の牧師さんで、うちの教会の牧師と親しいらしく、年に3回くらいはうちの教会でメッセージしてくださる。


 彼はフラー神学校で結婚と家族カウンセリングを学んだ、結婚カウンセラーだったそうだが、自分の結婚は、子どもが6歳のときに奥さんに去られるという形で破綻してしまったのだそうだ。また、この30年ほど、鬱と不安にずっと苦しんで来たとおっしゃっていた。今も、鬱がちょっと戻ってきていると言っていた。


 彼のメッセージは、いつも優しく心にしみる。どこかに悲しみのアンダートーンがあるのだけれど、それは聴く者を落ち込ませるような感じや否定的な思いを起こさせるものではなく、むしろ、ありのままの自分の姿でイエス様の前に出るのをうながしてくれる。イザヤ53章の、「彼は悲しみの人で病を知っていた」という一節を思い出させる。


 メッセージのいちばん最後に、彼はこう言った。「痛みについて、私が学ばされたことをお分ちしましょう。痛みと喜びは共存できるのです。痛みがなくならないと、喜べない、と思う必要はありません。痛みのただ中に、主は来られたのですから。インマニュエル。Rejoice!」


 今年、いろいろな痛みを抱えながらクリスマスを迎えようとしている方が大勢いらっしゃるだろうと思う。ひどく辛いことがあると、こんな状況でどうして喜べようか、クリスマスを祝えようかと思うかもしれない。でも、クリスマスに来てくださったのは、私たちを痛みごと受け止め、包み込んでくださるお方。悲しみの人で、病を知っておられるお方。そのお方が、私たちを救い、贖い、私たちと共にずっといてくださるとお約束してくださった。



しかし、彼を砕いて、痛めることは


主のみこころであった。


もし彼が、自分のいのちを


罪過のためのいけにえとするなら、


彼は末長く、子孫を見ることができ、


主のみこころは彼によって成し遂げられる。





彼は、自分のいのちの


激しい苦しみのあとを見て、満足する。


わたしの正しいしもべは、


その知識によって多くの人を義とし、


彼らの咎を彼がになう。





それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、


彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。


彼が自分のいのちを死に明け渡し、


そむいた人たちとともに数えられたからである。


彼は多くの人の罪を負い、


そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:10-12)




きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)



Rejoice.