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 セラのこの歌も素晴らしいし、The Nativity Storyからのこの背景も素晴らしい。


 この動画を見ながら、昨日読んでいた本に、ピリピ2:6、7の「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができるとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」の、「神の御姿であられる方なのに」の部分の訳は、実は「神の御姿であられる方なので」とするほうが適切なのではないか、とあったのを思い出した。この箇所の原文の文法は、文脈によって複数の解釈が可能で、「~なのに」とも訳せるし、「~なので」とも訳せるらしい。神の御姿であられる方であれば、本来ならそのあり方を捨てることはしないだろうという発想は、そもそも人間的なものであり、神様のご性質をよくよく考えるのであれば、「神の御姿であられる方だからこそ」ご自分のそのあり方をお捨てになることを選ばれたのではないか… ということらしい。


 奇しくも、今朝読んでいた聖書個所がピリピの2章。「神の御姿であられる方なので」と置き換えて読んでみた。そう読んでみたら、イエス様のご栄光が、ますます強く心に迫った。この部屋中をおおい、そのご栄光の重みに、床の上にはいつくばってしまった。


 そして、今朝送られてきた上沼先生の神学モノローグ「パウロの観たクリスマス」。






パウロのキリスト理解の枠はローマ書の初めに良く出ている。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、、、公に神の御子として示された方」(1章4節)、これが福音であるという。この枠はピリピ書の2章のいわゆる「キリストの謙卑」と言われるところでも明確に表されている。キリストは、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、、、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」(7,8節)こと、それに報いるように「神は、キリストを高く上げて」(9節)くださった。


 すなわち、受肉と十字架と復活がしっかりと結びついている。切り離されていない。降誕節だけが突出してはない。しかも、復活で神の子として公に示されたというのは、パウロ自身の体験にも深く結びついている。その始まりがダビデの子孫として生まれキリストである。まさにユダヤ人であることに根付いている。自分と同じ民である。そのキリストが復活を通すことで神のこと公に示された。この受肉と復活、その中に十字架をみるという枠がパウロの中でいつも生きている。


 この枠がしっかりとしているので、その先を引き延ばして、そのキリストがピリピ書では「神のみ姿にあられる方」(2章6節)と言い、コロサイ書では、「万物は御子にあって造られた」(1章16節)とまで言い、1コリント15章では、いわゆる第二のアダムとして捉えている。すなわち、ダビデの子孫として生まれ方が、第二のアダムとして遣わされたと観ていく。 第一のアダムのゆえになしえなかったことを神はご自分の御子を通してなされたと捉える。 ローマ書8章3節のパウロの受肉論の神髄である。 何とも強靱な思考である。


 同じことがコロサイ書でも繰り返されている。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(1章22節)パウロにおいて受肉と十字架はすぐそばである。すなわち、ダビデの子孫として生まれたキリストは、私たちのために十字架にかかるためであった。十字架の死を受肉のすぐ向こうに見ている。それゆえに、受肉はなんと言っても厳粛なことである。


 取りも直さず、受肉はまさに自分の罪のためである。自分の罪であり、全人類の罪である。私たちの身代わりとなるために生まれたのである。その意味では、御子の誕生は喜んでいられない悲壮なものである。十字架をすぐそこに見ているので降誕だけを切り離して喜んでいるわけに行かない。しかし、その十字架の死の向こうに勝利を観ている。そこで初めて受肉の目的が完成する。喜びをようやく覚える。



 「受肉と十字架と復活がしっかりと結びついている。」 そのことを思っても、やはり「神の御姿であられる方なので」と読むほうが、メイクセンスする気がする…


 あと、この数日詩篇25篇をずっと思い巡らせていて、とくに「恥」というコンセプトが気になっている。恥と栄誉(Shame and Honor) 。ユダヤにおける恥って、どんなものだったのだろう。日本は恥の文化だとよく言うけれど、日本人的な感覚の恥と似ているのだろうか。





(全然話題は変わるのですが、ちょっと前の上沼先生の「ウィークリー瞑想」にも興味深い記事があったので、リンクします。