(2012.3.2 追記:かわむかいさんが、翻訳してくださいました!)
最近、私はある調査のレポートを読みました。 それによると、福音派のクリスチャンホームに育つ子供たちの90%が、キリストを心に受け入れる決心をするということでした。この数字は、多分だいたい期待通りのものではないでしょうか。
ところが、キリストを受け入れた90%の子供たちのうち、35歳になってもイエスに従い続けているのは、 その中のわずか22%だというのです。 私たちのほとんどが、その数字にショックを受けるのではないでしょうか。 私もショックを受けました。
考えてみて下さい。 私たちは、キリストに従うと決心した人の3分の2以上を失い続けているのです。 何かがおかしいのです。どこかがものすごくおかしいのです。 おかしいのは、私たちが語っている「福音」です。
おかしいのは、私たちが若い人たちに対して用いる、キリストに従う決心をするよう説得する方法です。 「福音」は、キリストの弟子を作るよりも、決心させることにこだわりすぎていないでしょうか。そのようなこだわりは、イエスの福音が本来意図していたものを台無しにしてしまうのです。
私の見るところによれば、 今日の教会で機能しているいわゆる「福音」は、教会を「救われた人たちの社交クラブ」におとしめているのであり、 イエスの十字架にまで従う人々の社会を作ることには失敗しているようです。
この問題を解決するために、ある牧師たちは、 もっと罪を強調すべきだと言います。別の牧師たちは、神の怒りや永遠に続く地獄の炎の激しさについて語ることを もっと増やすべきだと言います。 さらにほかの牧師たちは、 すべてのことを恵みと信仰における義認にもう一度焦点を置くべきだと言います。
しかし、それらのことではこの問題を解決することはできません。 いくら弱い福音をいじってみたところで、弱い福音にしか過ぎないのです。 なぜなら、そもそも私たちが『福音』と思っているものは、 もともとの『福音』そのものではないからです。 ですから、 私たちは一からやり直さないといけません。
もともとの『福音』とは、使徒的な福音とは、本来どのようなものだったのでしょうか。 もっと言うなら、 イエスが語った『福音』とは、どのようなものだったのでしょうか。
私たちは、聖書が語っていることを聖書に語ってもらうべきではないでしょうか。私たちが語りたいことを聖書に無理やり語らせるのではなく。
おそらく、 今日多くの福音派の若いクリスチャンが教会から離れていく理由の一つは、 彼らが教会で聞いている『福音』が、 イエスが語った『福音』ではなく、 彼らはイエスの福音を求めているからではないでしょうか。
ですから、『聖書』に戻りましょう。ご一緒に。そして、イエスやペテロやパウロが『福音』と言ったとき、彼らは何を意味していたのかをよく見てみましょう。私たちは、非常に大きな転換をしなければならないことに気づくはずです。
私たちはもともとの良い知らせを回復させなくてはなりません。
そしてそのもともとの良い知らせを、私は「王なるイエスの福音」と呼びたいと思います。
紙の本に先立って出版された電子版を、早速キンドルで購入。
この十年くらい、特に過去4~5年、あちこちを突き崩しつつ、bits and piecesで集まってきたパーツの数々が、どう組み合わされるのかここにきてようやく青写真が見えてきたような… でも、まだ先は長そうだけど。
スコット・マクナイトによる記事 ↓
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