今朝、鎌野先生(関西聖書神学校学監)とツイッターでやりとりしたことをメモ。私なりに、ははぁなるほど、こうつながっていくのか、と腑に落ちたものがあったので。






nkamano:  身体で考える。 http://bit.ly/oZ1cw2 8:19am, Jul 07 from Hatena


mmesachi: @nkamano 上沼先生が「身体性のキリスト教」について語っておられたのを思い出しました。 http://ow.ly/5yNwp 8:54am, Jul 07 from HootSuite


mmesachi:受肉のリアリティがあってこその十字架と復活なのに、受肉の理解が不十分だと、十字架と復活がもたらす福音、すなわち永遠のいのちや、キリストと共に生きキリストに似た者にされるということは、私たちにスーパーヒューマンたることを要求するだけになってしまうのかもしれない。8:59am, Jul 07 from HootSuite


mmesachi: 上沼昌雄先生 on 「受肉の神学」 http://ow.ly/5yOaV ちょっと昔の記事ですが… 9:02am, Jul 07 from HootSuite


nkamano: @mmesachi 内田樹は「人間はからだで考える」と理解している。考える部位はからだの一部であり、感じる部位もからだの一部である。「心で感じる」とか「頭で考える」という限定した人間理解(たぶんデカルト以降?)が実はキリスト教理解をゆがめていったのかも知れない。 9:06am, Jul 07 from Echofon


nkamano: @mmesachi それから、どこかで言ったと思いますが、キリスト教の「霊性」とは、「神の聖霊によってこのからだをどのように動かすのか」であると考えています。もちろん、ここでいう「からだ」には知性も感情も意志もからだの動かし方も全部含まれていますが。 9:09am, Jul 07 from Echofon


mmesachi: @nkamano「我思う、故に我あり」…考えることが人間を人間たらしめるという考えが、人間理解を狭めてしまった? 9:10am, Jul 07 from HootSuite


nkamano: @mmesachi そうです。内田樹曰く、「我思う、ゆえに思うあり」です(彼の「武道的思考」参考)。 9:12am, Jul 07 from Echofon


mmesachi: @nkamano 「霊性」といっても、実は身体も含めて、人間の存在を包括的にとらえるのが本来のキリスト教のいう「霊性」、ということでしょうか。ダラス・ウィラードもそういう考えですよね。 9:12am, Jul 07 from HootSuite


nkamano: @mmesachi まあ、わたしの思索はウィラードの影響も受けています。また、NTライトも。キリスト教(そしてユダヤ教もだが)は本来身体性を重んじていたはず。だから、救済の究極的目標は「からだのよみがえり」。 9:14am, Jul 07 from Echofon


nkamano: @mmesachi 今日も友人と話していたのですが、人間の身体性を重んじた霊性の神学みたいなものを書く必要があるでしょうね。ああ、また、すべき宿題が増えていく。 9:15am, Jul 07 from Echofon


mmesachi: @nkamano 上沼先生が、「霊性の神学」について思索しておられるうちに、身体性のキリスト教といったことに至られたのは、まさにそういう必要からだったのでしょうね。鎌野先生、宿題よろしくお願いします! 9:19am, Jul 07 from HootSuite



 このやり取りのあとで、そうか、内田氏と上沼先生の共通項はレヴィナスだった、と気づいた。それから、「救済の究極的目標は「からだのよみがえり」」という鎌野先生のお言葉。続きをもっと伺いたい。N.T.ライトをもっと読めばいいのだろうけど、私にはやっぱり敷居が高いので… 汗


 ちなみに、「受肉のリアリティがあってこその十字架と復活なのに、受肉の理解が不十分だと、十字架と復活がもたらす福音、すなわち永遠のいのちや、キリストと共に生きキリストに似た者にされるということは、私たちにスーパーヒューマンたることを要求するだけになってしまうのかもしれない」という私のツイートは、2006年の私のブログ記事からの引用。改めて読み直し、当時の私は救済論における復活の意義などぜんぜん考えてもいなかったな、と気づいた。からだのよみがえりは、キリストが神の子であることを示す究極の奇跡、くらいの認識しかなかった。