少しだけでもいいから、忘れないうちに感想をメモしておきたい。


 先日もちょっとだけ言及した、内田樹氏の『下流志向ーー学ばない子どもたち、働かない若者たち』。現代の日本の若者たちが、学びや労働から「逃走」しているという。子どもたちが、教育を受ける権利を、まるで無価値なもののように放棄している、そして「自己責任なんだから、働こうが働くまいが、自分の勝手だ」とばかりに、労働しないことを選んでいる…


 なぜそういう現象が起こっているのかを、著者の仮説と分析によって説明しているのだが、それはとりあえず置いておいて… まずは、「労働」に関して、本書を読みながら思わされたこと。


 近年、日本で「自己責任」という概念が曲解されているという話を、以前どこかで聞いたことがある。新型インフルエンザが流行ったとき、次々と学校が休校になり、自宅に留まるよう指導されたにもかかわらず、モールや繁華街を歩き回っている子たちがいた。うろうろ出歩いていたら新型インフルにかかるかもしれないから、自宅にいなさいと言われても、「かかったら自分が寝込めばいいことで、自己責任なんだから、他人にとやかく言われることじゃないだろ」というのが彼らの理論だったらしい。


 しかし、こういった感染率の高い病気がはやっているときに出歩かないようにするというのは、自分がその病気にかかるかどうかだけの問題ではない。罹患する人が続けば、いつまでたっても流行は止まない。各人が罹患しないように気をつけるというのは、自分の健康の問題だけではなく、自分の属す共同体において自分がはたすべき責任でもある。自己責任の意味するところの大きな部分は、「共同体において、他者に対して自分が負う責任」だと思う。「自己責任」は、「あなたには関係ない」とは言わない。


 「労働」に関しても同じことが言える。働かなければお給料がもらえないが、困るのは自分であって、他人に迷惑をかけているのではないのだから、人にとやかく言われる筋合いではない、というものではない。労働するとは、ただ自分の生活費を稼ぐという次元のことだけではなく、コミュニティー(共同体)に対する責任であり、way of lifeなのだと思う。エデンの園においても、人間は労働するように造られていた。お給料をもらえる仕事だけでなく、家庭においてなされる各種の労働も同じ。社会とは、その成員の一人ひとりが、自分の分を果たすことで成り立つものなのだ。


 『心の刷新を求めて』で、ウィラードはそれを「互いに満たし合う交わり」と呼んでいる。



人間の生活とは、それぞれが他者のうちに根ざしていてこそ、自然な状態であると言えます。… 私たちは皆、「誰かのため」に生きることが必要です。皆がそれぞれ「誰かのため」に生きるとき、そこには「互いに満たし合う交わり」が出現します。… 人間同士の交わりが「本当に大丈夫」であるためには、その前提としてそれを支援する、より大きな交わりがあることが必須です。… 同様に、この大きな交わりはさらに大きな交わりを必要とします。さらなる大きな交わりはあまり親密ではないかもしれませんが、それなしで内側の交わりは存在できません。人間生活とはそういうものです。…(pp.319-321)



 夫婦があり、親子があり、家族があり、地域社会があり、国があり、世界がある… それぞれの関係の中で私たちは生きており、どこかが軋めば、他方にも影響がでる…


 責任というと、何か外側から強要される嫌なもののように思いがちだけれど、本当は、人間が社会(共同体)の中で生きる上で不可欠な要素。「自分のことは自分で面倒みる」ということでさえ、「他人は関係ない」のではなく、他者との関係の中で生きていればこそ、重要になってくること。「人間は、本来的に共に生きる存在です」とハンス・ビュルキ師も言っているように…


 学ぶということも、自分の知識や訓練のためだけでなく、社会の構成要員として社会に貢献・還元していくために必要なのだと思う。社会的な地位や高収入を得るためではなく、人間が神の召しを「共に」生きていくために… 


 現代の若者は、「共同体の一員として生きる」という経験が乏しいのかもしれない。家庭、親子といういちばん基本的な共同体から、社会という大きな枠に至るまで… 内田氏は、子どもがまず家庭の中で、自分の仕事の分担を与えられ、それをこなすことで家族に貢献し、そこから「自分は価値あるものである」と意識できるようになることが大切なのに、現代の家庭ではそのようになっていないことを指摘していた。


 アメリカの家庭や社会は、子どもの自尊心(セルフ・エスティーム)を傷つけないようにと、やたらと子どもを誉めまくり、「あなたはそのままで素晴らしい」メッセージを送り続けているけれど、当の子どもたちは、いくら大人からそのように言われようとも、健全な自尊心を育てられないでいる。実際に「誰かのために」何かをして「役に立つ」という経験と、そこからくる自己認識が、やはり不可欠なのではないかと思わされる。(役に立てないなら無価値なのかとか、そういうことではなくて。)


 『下流志向』を読んでもう一つの感想。後半に「子どもの成長を待てない親」という項目があったのだけれど、そこにとても共感した。(というか、自分もその一人だったと我が身を振り返らされた。)


 近年、人はすぐに結果のでない仕事には魅力を感じなくなっている。株や為替の取引などは、一瞬にして多額のお金が動き、大金持ちになったり大損したりという結果が、瞬時にして見える。すぐに結果の見える仕事だと人は「やりがい」を感じるが、たとえば林業とか、苗を植えてから何十年も経たないと結果が出ない仕事は敬遠される… 心理学的に言えば、「満足の遅延」ができなくなっている。


 時間のかかる仕事の代表的なものの一つが「子育て」だが、今時の親は、子どもの成長を待てない…



 育児って、すごく時間のかかる仕事でしょう。でも今の若いお母さんって、育児をロングスパンで考えることができない。すごく短いスパンで考えている。それはおそらく育児をビジネスの用語で考えているからだと思うんです。…最初は排便のしつけができるとか、言葉がしゃべれるとか、歩けるとかいうかたちで、目に見えるかたちで子どもの能力の開発に目がゆく。そのあとは英語ができるとか、ピアノができるとか、有名校に入学したとか、やはり目に見えるかたちで子どもに付加価値を付けていこうとする。子どもに付加された価値を親である自分自身の「事業」の成果として可視的、外形的に誇示しようとする限り、必ずそういうことになります。…


 本来育児って、すごく時間のかかる仕事であって、自分の育児が成功したか、失敗したかなんてことは、子どもを持つとわかるけれども、二十何年たってもよくわからないものでしょう。よくわからないのが当たり前だと思うんです。…結果的に、それで子どもの成長を気長に待つということができにくくなっていると思うんです。…(『下流志向』講談社文庫pp.196-197)






 教会の運営や成長論でも、近年ビジネス用語や概念がすっかり入り込んでいるようだけれど、メンタリティーまでそれに浸食されないよう、気をつけないと。成長には時間がかかるのだ。神様が「進化」という長い、長~~~~い過程を用いてこの世界や生命を造られたことには、本当に深い意味があるのだと思う。それを言い始めると話しが広がりすぎてしまうので、今日はここでやめるけれど。


 全然まとまらず、なぐり書きでごめんなさい。