ここしばらく、アメリカの旧約学の神学者ブルース・ウォルトキー博士が、有神論的進化論を支持する発言をしたことがきっかけで、改革派神学校を辞任された件について何度か言及してきました。(こちらこちらなど。)この件は、英語圏の多くの個人ブログやクリスチャニティトゥデイ誌のようなキリスト教メディアはもちろん、USATodayABCニュースの一般メディアでも取り上げられています。


 日本から見ると、「欧米」は何かと一括りにされることが多いですが、進化論と聖書解釈を巡る論争に関しては、アメリカとアメリカ以外の英語圏では、ずいぶん事情が違うらしいことについて、このブログでも少し触れたことがあるとおりです。


 それにも関係して、先日、「のらくら者の日記」様が、なぜアメリカではこういう論争があるのか、背景の説明の一つとして、カナダ人神学者J.I.パッカーの『福音的キリスト教と聖書』(岡田稔訳 いのちのことば社)に言及しつつ、次のように述べておられました。



実は、アメリカ合衆国での「進化論論争」を考察する時、《リベラリズムとの戦い》という、「聖書論」をめぐる論争の歴史が(アメリカでの出来事の影響でイギリスでも)かつてあったことを知っておくことは大事であります(→http://www.youtube.com/watch?v=KDdO94K3TDs)。聖書も、自然(被造世界)も、神の言による「啓示の書物」であるからです。バード師も語るように、アメリカ以外の英語圏では、パッカー博士のこの本は「決定版」のような意味を持ちました。イギリスの福音主義では、聖書論の基本的かつ最重要な思想は本書で十全に語られていると一般的には理解されています。けれども、アメリカ合衆国では必ずしもそうではありませんでした。ですから、1970年代から1980年代にかけて、アメリカの福音派内で聖書の「無誤性(inerrancy)」と「不可謬性(infallibility)」をめぐって激しい論争が起こりました。一部の福音主義者たちは、故F. F. ブルース教授のような重鎮にすら「リベラル」のレッテルを貼ったほどでした。(のらくら者の日記



 さて、私は神学者でもなく、神学書にもまったく疎いのですが、昨日友人のうさたろうさんから、『福音的キリスト教と聖書』に関してとても興味深い(ショッキングな)情報をいただきました。うさたろうさんは、「のらくら者の日記」様の上述の部分に言及しつつ、日本における福音派の状況に関して、以下のようにおっしゃっておられました。転載許可をいただきましたので、以下にご紹介させていただきます。


==以下、引用==


 つまりイギリスの福音主義は、パッカーの同書によって学問的にバランスの取れた聖書論が発達したが、米国の事情は違い、いささかいびつな所のある聖書論が力を振るい、現在に至っているというわけである。(まあ、シカゴ宣言にはパッカーも名前を連ねており、そこまで事は単純ではないと思うけれども)


 ともかくウィルトーキー博士辞任の大きな理由が、米国におけるそういう聖書論の流れから派生している点に間違いはないだろう。


 翻って日本の福音派はどうかというと、イギリスよりも米国型福音主義の影響を色濃く受けてきた経緯により、米国の事情に近いものがあるのではないかと感じる。上のパッカーの『福音的キリスト教と聖書』が早々と翻訳刊行されていたにもかかわらず、事はイギリス的な方向には進まなかった。


 実はその一因は、同書の翻訳が不適切なものだったからではないかというのが、自分のひそかな疑いである。それは誤訳が多いとかいう水準ではなく、米国の根本主義に見られるような反知性主義に対してパッカーが批判的なことを書いている文章を、邦訳がばっさり削除しているからである。


 具体的には、原著p.30の3行目からp.34の9行目までが、2つの項目見出しのみ訳して後は何もかも訳出されていないのだ(邦訳p.39)。そして、その2つ目の項目見出しの内容が米国の根本主義に対する次のような批判の言葉なのである。(2つ目の項目の内容だけ削ったのでは不自然になるので、1つ目の項目の内容も巻き添えを食って削除されたのだろう。)


American Fundamentalism did not in every respect adorn its doctorine. ... Partly in self-defence, the movement developed a pronounced anti-intellectual bias; ... Its apologetics were makeshift, piecemeal and often unprinciples and unsound. Its adventures in the field fo the natural sciences, especially with reference to evolution, were most unfortunate. Here, where the Fundamentalists' confidence was greatest, their competence was least, and their performance broght ridicule and discredit on themselves. ... the movement lacked depth and stability, and showed itself unduly susceptible to eccentric influences originating from its own ranks.


 明らかにパッカーは、米国の根本主義者たちとは一定の距離を置こうとしている。そして、その原因の一つが、根本主義に見られる非知性的な態度であり、自然科学分野、特に進化論関係の論説に見られるおそまつさなのである。


 原書刊行は1958年、邦訳は1963年に出ている。しかし、当時の福音派において、上のような言葉は公にするわけにはいかなかったのかもしれない。リベラリズムは悪、根本主義は善、という単純な二項対立の図式の中には、こうした中間的な是々非々の論議はなじまなかったと十分に想像できる。


 この数ページを削除したのが翻訳者なのか出版社なのかは定かではないが、いかにも全訳したかのようなよそおいの、このJ・I・パッカーの聖書論に関する「決定版」が、意図的に大きく削られていたことは事実である。しかも訳者あとがきを読んでも、その間の事情は何も物語られていないのだ。これは著者にとっても、何も知らない日本の読者たちにとっても不幸なことだったと思うし、翻訳書の出版としてあるべきではない姿だと思うがどうだろうか。


 このパッカーの本は、原題を『'Fundamentalism' and the Word of God』という。直訳すれば、『「根本主義」と神のことば』である。いわゆる「根本主義」と神のことばがいかなる関係にあるかを、パッカーは根本主義者のひとりとしてではなく、真の福音主義者として冷静に論じているわけだが、当時の日本においては福音主義も根本主義も同義として受け入れたい、受け入れなくてはならない事情があり、上のような削除も行ない、邦訳名をあえて「福音的キリスト教と聖書」としたのではないか。


 だがそういうことでは、底の浅い福音理解、聖書理解にしかならないだろう。返す返すも残念なことである。


==引用終わり(文中、赤文字ははちこによります)==


 翻訳書において、都合の悪い箇所(?)が黙ってばっさり削られているというのは、非常に残念なことですが、私もいくつか例を見聞きしたことがあります。一般の出版社が、売れ筋の本から日本の読者になじまなさそうな箇所を削るというならともかく、キリスト教書において、著者や読者に断りなく削るというのは、本当に残念なことだと思います。(翻訳者として、ポカミスによって一行、あるいは一段落スポッと抜かしてしまうことが起こり得るのはわかるのですが、今回の場合は、ポカミスではなさそうですよね。)


 科学(とくに進化論)と聖書理解について、アメリカではようやく、少しずつ、ほんの少しずつですが、対話が始まりつつあります。その流れが日本に入ってくるにはきっとまだまだ時間がかかるでしょうが、いずれはそうなってくると信じています。(アメリカから入って来るのを待つ必要は全然ないのですが!国内でそういう議論が出てくるならなお素晴らしいと思います!)もちろん、科学が聖書と同じくらい大事だと言っているのではありません。ただ、被造物に関して、曲解とも思える解釈がクリスチャンの間でまかり通ることは、創造主である神のご栄光を表すことにならないと思うのです…


追記:この件に関するディスカッションの続きが21日の記事のコメント欄にもありますので、興味のある方はそちらもご覧ください。