今読んでいる最中のジョン・オートバーグの新刊、"The Me I Want To Be"の中に、Spiritual growth is hand-crafted, not mass-producedという言葉があった。神様が、私たち一人ひとりを成長させる方法は、工場の大量生産のようなものではなく、それぞれに異なるものであり、匠によって一つ一つ丁寧に作られるようなものだ、と。他の人の成長に役立った方法が、自分にも役立つとは限らない。


 それなのに、たとえば「霊的成長のためには日々のデボーション!」と言われると、デボーションをしないと成長できないと思い、一生懸命やろうとする。しかも、たとえば朝早起きして、15分、できれば30分した方が良いと思い、一生懸命努力する。しかし、それが自分に合わない方法だとそのうち疲れてくる。そして挫折してしまう。止めてしまうと、今度は罪悪感を覚える。そのうち、罪悪感がどんどん大きくなり、耐えきれなくなる。耐えきれなくなると、「なんとかしなくては!」と心機一転をはかり、再びデボーションなり何なりを始める。しかしやっぱり続かなくて、また止めてしまう。そして罪悪感を覚え… オートバーグ師は、私たちの歩みは、こういったサイクルの繰り返しが多いのではないか、と指摘した。(もちろん著者は、デボーションに意味がないと言っているのではないけれど。)


 私たちは霊的成長を測るのに、しばしば「'霊的な活動'をどれだけしているか」という尺度を用いようとする。どれだけ聖書を読み、祈っているか。どれだけ教会に行っているか。どれだけ奉仕しているか。どれだけ信仰書を読んでいるか。どれだけ…


 オートバーグはあるときダラス・ウィラードに尋ねたらしい。霊的成長をどのように測りますか、と。するとダラスは、すぐにこう答えたのだそうだ。「自分の霊的状態を測るのに、私はこのように自問します。『私はこのごろ、苛立ちやすくなっていないだろうか、気落ちしやすくなっていないだろうか』」


 なるほど、たとえ毎朝がっつりデボーションを持っていても、もし日常の些細なことにすぐにイラッときたり、かんたんに落ち込んでいるなら、「霊的な活動」はしているかもしれないけれど、神様のいのちによって生かされてはいないのかもしれない。だとしたら、私が神様のいのちによって生かされるためには、どうすればいいのだろう?



A spiritual discipline is simply an activity you engage in to be made more fully alive by the Spirit of Life. 霊的修練とは、いのちの御霊によってより豊かに活き活きと生きるようになるために行なう活動のことである。 (John Ortberg)



 イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37、38)と言われた。イエスのもとに行って飲むこと。生ける水の川のように流れ出る、イエスのいのちの中に浸りその流れの中で生きること… To live by Grace. 「恵み」によって、生きること。


 ウィラードの自問リストの中に、「私はこのごろ、他者に対して批判的になりやすくなっていないだろうか(相手をbuild up するのでなく、tear downしがちになっていないだろうか)」をつけたしたいと思った。そういう時の私は、絶対「恵み」の中にいないと思うから… 


 


 ここしばらく、「プロセスを通して働かれる神」「時間をかけて成長させてくださる神」、そういったことをずっと語られている。神様が私たちに関わり、導いてくださる方法の多様さ、深さをしみじみと思う。そこには最短距離とか、効率の良さといったものは関係ない。「公式」もない。(神様のご性質からくる「原則」はあるかと思うけど。)私たち一人一人に合わせて、最適な方法で介入し、導いてくださる。誰か他の人の人生の中で働いておられる神様のやり方が、私の人生の中で働いている神様のやり方と違うからといって、不安になったり批判的になる必要はない。



神はアロンには祭壇を、ミリアムには歌を、ギデオンには羊毛を、ペテロには名前を、エリシャには外套をお与えになった… 神は誰のことも、同じ方法で成長させることはない。神は手作りされるお方。大量生産をするお方ではないのだ。(John Ortberg, "The Me I Want To Be")




 人はみな、神様によってそれぞれユニークにつくられた。人が神様とコネクトする方法も、人それぞれなのだ。(ゲーリー・トーマスは、それをSacred Pathwaysと呼んでいる。)

追記:クリスチャニティ・トゥデイのリーダーシップジャーナルに、オートバーグ師がこのトピックについて語っている記事を見つけました。7ページにもわたる英語の記事ですが、興味のある方はぜひどうぞ!




 この記事の中では、上述のウィラードの件について、このように述べられていました。



When I realized that devotional practices were not the best measure, I once asked Dallas Willard how he monitored the condition of his soul. His immediate response was that he regularly asks himself two questions:


―Am I growing more or less easily irritated these days?


―Am I growing more or less easily discouraged these days?


Gauging peoples' involvement in activities like small groups and serving is surely a good thing. But we need to give them a deeper way of looking at the well-being of their souls.



 実は私はオートバーグ師の講演のCDも聴いていて、そこではHow do you measure spiritual growth?と尋ねたらこういう返事がきた、と言ってたのですが、「how he monitored the condition of his soul(自分の魂の状態をどのようにモニターするか)」の方が、しっくりきますね。