2週間ほど前から、うちの教会でAmerican Idolsというタイトルのメッセージシリーズが始まった。人が抱きがちな「偶像」として「性」「お金」「権力」を一つずつとりあげ、4週間めがちょうど復活祭にあたる日で、その日には「唯一まことの神」について語られる予定。


 その第一回めの「性」という偶像についてのメッセージが、ちょっと予想外のもので、かなり印象に残ったので、メモ。


 ヤコブとレアとラケルの物語から。ヤコブは、父が兄エサウを偏愛し、母は弟ヤコブを偏愛するという、いわば機能不全家庭に育った。そして、父の祝福ほしさに父と兄を騙し、まんまとそれを手に入れたものの、兄の報復を恐れて逃げ出さなくてはならなくなった。故郷から離れた土地で、伯父ラバンのもとに身を寄せたヤコブは、ラバンの娘でラケルという美女に出会い、すっかり心を奪われた。そして彼女を妻にすることを切望した。パスターは、健全に愛されることを知らなかったヤコブは、ラケルとの関係によって自分の心の空洞を満たそうとしたのではないか、と言った。またラケルの姉で外見がパッとしないレアは、ヤコブに愛してもらうことで、恐らくこれまでずっと抱いていたであろう劣等感を払拭しようとしたのではないか… 


 究極的には、私たちの心の空洞を真に満たすことができるのは、神との関係のみ。私たちは神の愛を燃料として生きるように造られた。自動車はガソリンで走るように造られており、似て非なるディーゼルを入れるなら、動かなくなってしまう。同じように人間も、神の愛と似て非なるもので自分の心を満たそうとするなら、失望に終わるだけ… (ここでパスターは、ただし神は、私たちが人との関係を通して神様の愛を体験できるようにもされているので、それを否定するものではない、と確認。)


 ラケルを欲しくて欲しくて仕方のなかったヤコブ。ようやく念願かなってラケルを妻にしたと思ったのに、「朝になって、見ると、それはレアであった」(創世記29:25)。私たちも、結婚生活の中で、自分の配偶者は自分が切実に欲していた理想の人とは違っていたと気づくときがあるかもしれない。「私はラケルが欲しかったのに、なんだ、レアじゃないか!」という失望感を、結婚生活の中で感じる時があるかもしれない。レアはいつまでたってもレアです、その現実を受け入れなくてはなりません、そして、あなたを満たすことのできる「ラケル」は、実はこの地球上どこを探してもいないのです、パスターはそう言った。なぜなら、私たちの心の奥底にある空洞、いくら振り払おうとしても振り払え切れない飢え乾き、焦燥感は、神様ご自身によってしか満たされないから… あなたの配偶者は、あなたにとっての「No. 2」にしかなり得ない、そういうものなのです。それでいいのです。配偶者がラケルになることを求めてはいけません、レアはレアです。それがあなたが結婚した相手です。あなたのレアを、レアとして受け入れ、レアとして愛しましょう、あなたのNo.1は神、配偶者はNo.2なのですから…


 一方レアも、自分の愛する人が、自分にはどうしても満足してくれないという悲しみを抱えていた。子どもさえ生めば、夫の気持ちが自分に向いてくれるのではと、痛ましい期待を抱いた。そして長男ルベンが生まれたとき、「今こそ夫は私を愛するであろう」と言った。次男シメオンが生まれたときは、「主が私がきらわれているのを聞かれ、この子をも私に授けてくださった」と言い、三男レビが生まれたときは、「今度こそ夫は私に結びつくだろう」と言った。


 努力しても、努力しても、夫を満足させることのできないレア。どんなに夫を愛しても、私では夫は満足してくれない、喜んでくれない。私は「ラケル」ではないから… ヤコブに愛されることこそ自分の幸せと思っていたレアは、このままでは絶対に幸せになれないループにはまりこんでいた… 


 しかし、四男ユダが生まれたとき、レアはついに気がついた。自分の幸せは、ヤコブの愛を獲得することにあるのでなく、神との関係の中にあるのだと。「今度は主をほめたたえよう」(創世記29:25)、レアの目は、ついに神に向けられた。


 その後、ラケルの女奴隷、レアの女奴隷、レア、ラケルがそれぞれヤコブに息子を生み、合計12人の息子(と一人の娘)が生まれている。このあたりの経過は、かなり人間的な熾烈な競争という感じだったけれど、それを通してイスラエルの12部族が出たということに、神様の不思議な方法を思う。それはさておき、レアの最期に関する記述には、とても励まされる。ラケルは、最後の息子べニヤミンの出産後亡くなり、ベツレヘムの近くに埋葬されたが、その後ラケルより長生きしたレアが亡くなったときは、アブラハムとサラ、イサクとリベカも葬られているマクペラに埋葬された。そしてヤコブが死ぬときは、自分もマクペラに葬ってくれと言い残した。若い頃はラケルに夢中だったヤコブだけれど、ラケルと共に葬られるよりも、レアと共に葬られることを選んだ。ヤコブは、最終的には自分の伴侶としてレアと共に生きることに喜びを見いだしていたのだろうか。外見はゴージャスでも、心の中では姉レアに競争心を燃やし続け、心休まることのなかったであろうラケル。一方、神との関係に平安を得ることを知ったレアは、ヤコブにとっても「癒し系の妻」(?)になっていたのかもしれない…


 自分の幸せ、満たしを、神様以外の第三者との関係に見いだそうとすることは、その関係を偶像化していることになる… たとえそれが、夫婦の関係であっても… 私にとってこれは、新鮮な視点だった。結婚はキリストと教会の関係の象徴でもあるから、親密であることを求めるのは当然だと思っていた。でも、キリストと教会のような親密さを夫婦間に求めることと、「夫(妻)がもっと~~になってくれないと、私は幸せになれない」という思いを抱くことは(時には、口に出してそういう要求を相手に突きつけることもあるかも…汗)、確かに別問題。


 夫に、有言無言でいろいろなことを要求している自分に気づかされた。私の心の中では、それは本人のため、家族のため、のつもりだった(たとえば、もっと健康に留意してほしいとか)。だけど、そう思いつつも、実はやっぱり自分の満足のためだったかもしれないし、何より、要求することによっては、絶対に親密さは培われない… 


 夫婦が互いに相手のそのままの姿を受け入れ、愛し、感謝することで、夫婦間で真の親密さが培われていくなら、妻(夫)が要求しなくても、夫(妻)は、自分や家族にとって、必要なこと、大切なことを、自然と自分から考えてくれるようになるのかもしれない。そして、配偶者に絶え間ない要求をしてしまう罠から逃れるためには、自分がまず神様によっていつも満たされるよう求めること… それが鍵…





追記:


コメント欄で、kuriksちゃんから、「神様を第1にしていても、配偶者に求めて当然のこともあるのでは?」というコメントをいただき、それは私も以前からずっと葛藤していたことだったので、それに対する私のレスポンスを、記事本文にも転記しておきます。


                                *ーーー*


>神様を第1にしていても、配偶者に求めて当然のこともあるのでは?


そう、ほんとにその通りだと思うのよ! 夫婦は(それ以外の人間関係でも多かれ少なかれそうだと思うけど)、互いのニーズを満たし合うように召されているよね。神様がそのようにされたはず。私もこのことで、長年葛藤してきました。夫婦だからこそ、求めて当然のものがあるはずなんじゃないの? 自分が切実に必要としていて、しかも夫にしか求められないもの、神様ご自身が「夫を通して満たしてもらいなさい」と定めておられるものって、あるはずなんじゃないの?っ て。(夫から妻に対しても然り。)


でもこれって、「だから私は配偶者の当然の権利として、~~をあなたにdemandします」という方向に働くのではなく、「だから私は配偶者として、自分の願いよりもあなたのニーズを優先させたいです」という方向に働くべきものなんだろうなぁと、最近ようやく気づき始めました。お互いがそう考えていれば、自然と双方のニーズが満たされるよね。そしてこういう態度は、きっと神様をNo.1にしていないと、持ちえないのだろうなぁ、と。


とはいえ、自分はそう思って配偶者のニーズを満しているのに、配偶者の方はおかまいなしで、私のニーズは放置されっぱなし、となると、やっぱり辛いだろうけど。ものすごく辛いだろうけど。ある意味レアは、まさにそういう立場にいたよね。だからこそ、「今度は主をほめたたえよう」というレアの告白を、私たちも自分のものとして embraceしたい… そしてその後のプロセスは、主の御手に委ねたい… 





…と書きながら、考えてみたら、世の中には配偶者に満たしてもらうべきニーズを満たしてもらえないで、悲しい思いをしている人がきっと大勢いるのでしょうね… そういう人たちのニーズが放置されていていいとは思わない。主をNo.1にして、あとはもう諦めようね、と言って終わらせたくない。神様も、きっとそういう言い方はされないと思います。今これを書きながら、すごく心に迫ってくるものがあったよ。そういう方たちのために祈ろう、と。その方たちの結婚に、主のご介入があるように、もし片方の配偶者が心をかたくなにしているなら、それが溶かされ、主の愛に触れられるように… After all,結婚関係はキリストと教会の関係の象徴なのだものね。主が本来意図された結婚の姿が、すべての結婚の中で成就されますように…!