今朝、みんがまたスクールバスに乗り遅れた。間に合う時間に家を出たものの、途中で忘れ物に気づいて取りに戻ったため、バスには間に合わなくなってしまったのだ。


 ここ最近、そういうことが続いていた。高校までは歩いて行ける距離ではないので、バスに乗り遅れると、私が車で送ることになる。緊急時ならそれもやぶさかではないが、しょっちゅうバスに乗り遅れて、当たり前のように私を当てにされても困る。


 みんの高校は1時限めの履修はオプショナルなので、1時限めから始まる生徒と2時限めから始まる生徒がいるため、スクールバスも、その二種類の時間帯に来る。それで数週間前、私は一念発起してみんに言い渡した。「今度バスに乗り遅れたら、1時限めはあきらめて、2時限めからのバスに乗って学校に行きなさい。緊急時でない限り、お母さんはもう送っていきません」


 「でも、授業に出なかったら成績が下がっちゃうかもしれないよ!」とみん。「そうかもしれないね。そうなったらお母さんも残念だけど、それはあなたの問題だから。そうなりたくなかったら、朝ちゃんと間に合う時間に起きて、忘れ物しないように前の晩から準備しておくことだね」


 実は、これまでにも似たような会話を何度かしていたのだけれど、結局私の方が妥協してしまい、みんがバスに乗り遅れたら車で送っていく、ということを続けてしまっていた。そうなると、子どもの方も、「お母さんはあんなこと言ってても、いざとなったら送っていってくれるから」とどこかで甘えが出てしまうのだろう。それでは逆効果だ。『境界線~バウンダリーズ~』の中で、著者が、「親や妻や夫が、子どもや配偶者に対して、『今度~~をしたら、××ですよ』と言うその言葉を、最後まで守り抜いてさえいれば、どれだけ多くの結婚が救われ、どれだけ多くの子どもが道を外さずにすんだだろうか」というようなことを言っていたのを思い出す。私はみんに対して、これまで自分の言葉を充分に守り抜いていなかった。それは、みんにとっても良い結果を生んでいなかった。だから、今回は、本気でそれを固持しようと思った。私にとっても決して易しいことではないのはわかっていたけれど。


 みんは、私の真剣さがわかったのか、その後2週間ほどは、朝ちゃんと早くおきて、支度をして、バスに間に合うように出かけていた。ところが、今朝はついに失敗してしまった。走り去って行くバスを追って、「待って~!」と叫びながら雪道を走るみんの後ろ姿を見て、私は涙が出そうだった。しかしバスは待ってくれない。遅れてくる生徒をいちいち待つことなどできやしない。それが現実というものだ。


 呆然と立ち尽くすみんの後ろ姿に、「もう無理よ。戻ってらっしゃい」と声をかけた。彼女が家の中に入ってくると、私は言った。「バスに間に合わなくて、残念だったね。お母さんもとっても悲しいよ…」。みんは、「送っていってくれないの…?」私「うん、送らないよ」


 みんは唸るように叫び声をあげた。「ああ~~ん! 今大事なプロジェクトをやっているから、休んだら零点がついちゃうよ!」そして、ただちに電話を取り出すと、友達に電話をした。「パメラ? パメラはバスで学校に行くの? 違う? よかった、じゃあ、今朝、私のことも乗せていってもらえないかな。バス乗り損なっちゃって、お母さんは送っていってくれないの。ありがとう。助かる。ありがとう!」


 かくして、親切なお友達の車に乗せて行ってもらい、みんは無事、1時限めに間に合うよう登校した… 


 今日はこれで事なきを得たけれど、毎回パメラに頼むわけにもいくまい。二度とこういう目に遭いたくなければ、本人が気をつけるしかない。 


 人間、誰だって時には失敗する。そういうときに人に助けを求めることは一向にかまわないと思うけれど、それが年がら年中あっては困る。同じ失敗を繰り返していると、もはやそれは「失敗」ではなく、その人のいつもの行動パターンとなり、やがては人格の一部になってしまうから…


 パメラの車が来るのを待っている間、みんはむっつりしていた。私に対しても、腹立たしかったことだろう。みんのその気持ちはわかるから、私も「自業自得でしょ!」とぶつぶつ小言を言いたい気持ちをこらえ、黙っていた。


 迎えが来たとき、私はみんの背後からこう声をかけた。「Have a good day! Love you!」みんも振り返り、ニコッと笑って言った。「Love you, too!」


 ああ、主よ。大切なレッスンを学ぼうとしているこの母子を、どうかあなたが助けてくださり、恵みを注いでくださいますように。