最近アメリカで公開になったばかりの映画、イエス・キリストの降誕を描く『The Nativity Story』。受胎告知からヨセフとマリヤのベツレヘムへの旅、イエスの誕生、ヘロデ王による幼児虐殺などをリアルに生々しく描く。ロケ現場は、『パッション』に使われた場所と同じイタリアのマテラ。それからモロッコだそうだ。時代考証や文化考証も専門家によってしっかりやっているらしい。いえ、私はまだ観ていないのだけれど、是非観たいです。先週教会で、この映画の一部を観たのだけれど、とても良かった。


 ヨセフのもとに、いいなずけのマリヤが荷馬車に乗ってやって来る。マリヤの姿に恥ずかしそうに頬を紅潮させつつも走って出迎えるヨセフ。ところが、馬車から降りたマリヤのお腹はほのかにふくらんでいた。その場にいた人たちの目がマリヤのふくらんだ腹部に釘付けになる。マリヤは上着でお腹をおおい、人々の視線を避けながら家の中に入っていく。呆然と立ち尽くすヨセフ。やっとの思いで自分も家の中に入ると、そこでは両親がマリヤに詰め寄り、問いただそうとしていた。


 「相手は一体誰なんだ? 兵士の一人か?」詰問する父。泣き崩れる母。しかしマリヤは唇を噛みしめ、真っすぐに父を見て言う。


 「だから、さっきから言っているように、私は聖霊によってみごもったのです。エリザベツだって、高齢になってから子どもが与えられたでしょう?」


 「エリザベツには相手がいるだろう! 聖霊によってみごもっただなんて、何を寝ぼけたこと言ってるんだ!」


 「私は嘘は言っていません。律法を破るようなことは何もしていません!」


このやり取りを、離れたところからうつろに見つめるヨセフ…


 マリヤ役を演じるのは16歳の女優ケイシャ・キャッスルヒューズ。私がイメージしていたマリヤよりも、ちょっと気の強そうな女の子だけど、実際のマリヤも案外こんな感じだったのかもね。どこかおとぎ話のようになってしまいがちなキリストの降誕の物語だが、現実の人々の上に起きた、現実の出来事だったのだと改めて思わされる。肉を取り人となって、この地上で生きる肉なる人々の間に来られたキリスト・イエス… 





 そういえば、ちょうど今日配信されてきた上沼先生の神学モノローグでも、福音主義神学と初代教会の信条の違いという観点から、受肉に触れられていた。



 …第二は、さらに具体的な神学のアプローチとして、ニケア信条と福音派の信条に現されている、受肉の理解の違いである。さらにそれに関わる救済論、キリスト論、三位一体論の違いである。ニケア信条では、キリストの受肉は私たちのため、私たちの罪のためと明記されている。十字架と復活はそれに続いている。ニケア信条の中心人物であるアタナシウスの『神のことばの受肉』にもその意味がまとめられている。福音派の信条では、受肉は処女降誕の証としてまとめられているだけである。救いの理解は十字架から入る。いわゆる十字架の神学である。受肉は救済論から落とされている。


 この違いは、救済の意味づけ、キリストの位置づけ、三位一体論の捉え方と、神学全体の枠の違いをもたらす。初代教会では救いの目標はキリストとの一体におかれている。福音派では義認論が中心に回っている。初代教会では、キリストとの一体感がなければ、キリストとおなじ道を通されるという迫害に耐えることはできなかったという現実が基盤になっている。義認論の後にはキリスト者がどのように生きるのかという課題がでてくる。聖化と栄化というテーマで論じられている。そしてさらに、生きた三位一体論と思弁的な三位一体論の違いである。


 第三は、初代教会は信仰の影の面を真剣に取り上げている。闇の世界、魂の暗夜のことである。(中略)


 初代教会で受肉が前面に取り上げられていることで、同時に肉を持つ人間の弱さ、肉がうちに持っている悪の世界を正面から取り扱うことができる。プロテスタントは二元論を否定はしているが、二元的な視点を保持している。すなわち霊肉二元論な視点であって、肉の面を否定的なものとしてはじめから落としている。霊の面、信仰の世界だけのこととして聖書を理解している。そのために肉が負っている闇の世界を神学として取り扱うことができない。ニュッサのグレゴリオスは雅歌の麗しい交わりのために、暗夜の試みを通らないと入ることができないと見ている。光の世界にはいるために、闇の世界をしっかりと見据えている。… 


上沼昌雄師 神学モノローグ「ギリシャ正教会とキリストの受肉」より)



 キリストの受肉をしっかり受けとめないと、結局、実質上の二元論に陥ってしまう。受肉のリアリティがあってこその十字架と復活なのに、受肉の理解が不十分だと、十字架と復活がもたらす福音、すなわち永遠のいのちや、キリストと共に生きキリストに似た者にされるということは、私たちにスーパーヒューマンたることを要求するだけになってしまうのかもしれない。


 人間なんだから世俗的なままでいいというのではなくて。そうじゃなくて、何だろう、もっと大切で深い何かを主は差し出しておられると感じるのだけれど、まだ私には掴み切れていない…


 話題がそれてしまったけれど、The Nativity Story、クリスマス前に観に行く時間があったらいいな。