今日は感謝祭の日。友人宅にお呼ばれしているので、私は朝からのんびり。


 私はアメリカの祝日の中では感謝祭が一番好き。クリスマスや復活祭は、キリスト教にとって大切な日だから、もちろんその意味では好きなんだけれど、クリスマスは街(国)全体がすっかり商業的に賑やかになり過ぎて落ち着かない。復活祭は、その前後がお休みになるわけではないので、祝日という感じがしない。一方感謝祭は、木曜日から4連休になるし、家族や友人が集まって一緒に食事してただリラックスするだけなので、とにかくゆったりのんびりできて良い。


 夕べは、エミの高校のクワイヤが歌を歌うというので、隣町のカトリック教会でもたれたInterfaith Community Thanksgiving Eve Serviceという礼拝に行って来た。近隣の町のカトリック教会、ユダヤ教寺院、プロテスタント教会のいくつがが合同で持つ礼拝で、1970年代後半から毎年ずっと続いてきたものなんだそうだ。ユダヤ教のラビによるメッセージは、感謝とは、古いかなえられることのない夢を手放し、心のしこりとなっているものを「赦し」を通して手放し、自分の前に待っている新しいものに手を伸ばすところから始まる、というものだった。人を責めるとは、自分にある種の優越感をもたらすが、そんなことをしても自分にとって何の益にもならない、赦すとは、相手がしたことを正しかったと認めることではなく、自分の手に握りしめている燃える炭火を手放し、自らを自由にすることに他ならないのだ、と。私の中の「ユダヤ教のラビ」のイメージを180度覆すような、生き生きとしたユーモラスで愛情深そうな先生で、結構感動した。


 礼拝の最後の祝福は、民数記6章24-26節「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」を皆で唱えた。ユダヤ教のラビ二人、カトリックの神父二人、プロテスタントの牧師二人、計6人が壇上の前に、会衆の方を向いて腕を組んで一列に並び、まずラビがヘブル語で一節を言い、次にカトリックとプロテスタントの司祭たちが英語で同じ節を繰り返し、さらに会衆がそれを繰り返す、という形。ヘブル語の響きに、ほれぼれしてしまった。「アドナイ」と「シャローム」だけが聞き取れたけど、私もヘブル語ができたらいいのに、と思ってしまった。


 大学院生の頃、同じ研究室にイスラエル人のボアズという学生がいて、彼がしょっちゅうヘブル語で家族に電話していたのを思い出した。(ボアズが書くヘブル語の文字は、まさにミミズがのたくっているような文字だった…)ボアズは今、シカゴ大学の心理学部の教授をしている。まじめなユダヤ教徒の人たちは、アメリカ人でもみんなちゃんとヘブル語を勉強するらしく、以前ぼぼるパパがシカゴでもたれたボアズの息子のバル・ミツバのお祝いに招かれて行った時、ラビによるメッセージはすべてヘブル語で、会衆はちゃんとメッセージを理解しそれに反応していたらしい。礼拝の最初と最後には、約1メートルくらいの長さのトーラ(モーセ五書の巻き物)をかついでみんなで会堂の中をぐるりと回ったりしたのだそうだ。


 話が逸れてしまったが、エミたちのクワイヤの歌も素晴らしく、特に「エリコの戦い」は、鳥肌が立つほど良かった。公立の学校のクワイヤなのに、いくらinterfaithとはいえ、目一杯宗教的なこのような礼拝で歌うというのは不思議な気もしたけれど、やっぱりここが田舎だからなのかなぁ?


 とても良い礼拝だったけれど、唯一、イエス様の御名が出てこなかったのがちょっと… ユダヤ教と合同だから仕方ないのはわかるけどね。同じ聖書の神様を礼拝できるのは嬉しいけれど、イエス様の御名を出せないことには抵抗があった。


 さて、夕べエミに聞いたたまげた話。エミの友達が、プレイステーション3がアメリカで発売になった日にそれを購入し(前の晩から並んだらしい)、その日のうちにそれをeBayに売りに出したところ、約300ドルで買ったものが3000ドルで売れたのだそうだ!! びっくりー。