今日は受洗式があり二人の人が洗礼を受け、礼拝メッセージも、「なぜ洗礼を受けるのか」という内容だった。洗礼を受けることによって人は救われるのではないこと、浸水による洗礼の意味・意義、イエスを救い主として受け入れたなら、洗礼を受けることはイエスの命令であること…などなど。 


 この教会は毎週末、土曜日の夕方、日曜日の朝9時からと11時から、3回の礼拝を持っているが、昨日の夜の礼拝の最中、こんなことが起きたそうだ。メッセージの真っ最中、パスターがふと気が付くと、壇の前に男性が立っていた。パスターは躊躇しつつも、壇上からその男性に、「どうかしましたか(Can I help you?)」と声をかけた。すると彼は、「洗礼を受けたいのです」と答えた。「今、ですか?」「はい。」「…よろしい、やりましょう。では、壇に上がって来てください。」 この会堂は、礼拝堂の壇の横に、洗礼槽が設置されている。パスターがメッセージの続きをしている間に洗礼の準備をし、彼はその場で信仰告白をし、受洗した。メッセージでは、ちょうどエチオピアの宦官がピリポに洗礼を授けてもらうことを願った箇所が話されていた。



宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」  ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」 {そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」} そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。 (使徒8:34-38)



 この男性が教会に導かれたのには、実はとても不思議なきっかけがあった。数週間前のこと、ある教会員が教会に電話しようとした時、間違えて彼の番号にかけてしまったのだそうだ。彼女が「すみません、お宅は教会じゃありませんでしたね」と謝ると、彼は「違います。でも、その教会について教えてくれませんか」と聞いたので、彼女は彼に教会のことを伝えた。その次の週、彼は教会にやって来た。それは、ちょうどあの無神論者Hemantが来て、パスターと対話をした週だった。彼はこの対話を見て、心に響くものがあったらしく、次の週(先週)も教会にやって来た。そして、今週もやって来た。聖霊は、明らかにずっと彼の心に働きかけていて、今週の礼拝の最中、この男性はいても立ってもいられなくなり、メッセージの途中だというのに前に出てきて洗礼を受けたいとパスターに告げたのだった。 こんなことって、あるんですね…


 この様子はビデオに録画されており、今日の朝の礼拝でそれを見せてくれた。パスターは男性を壇上に招きつつも、声がかすかに震え、どこか緊張している様子が伝わって来た。パスターはこう言っていた。「God sometimes freaks me out. Does He ever do that to you?? (神様は時々、ギョッとするようなことを私になさるのですが、あなたにもそういう体験はありますか?)」 神様のなさることって、ほんと、人間がする演出よりもはるかにものすごい。聖霊に押し出されて前に出て来た男性と、聖霊の促しに従ってその場で彼に洗礼を授けたパスター。なんてawesome な moment でしょう! 今日の礼拝の最後では、パスターはこう言った。「私たちスタッフは、今日の午後はずっとここにいますから、他にも洗礼を受けたい人がいましたら、礼拝後、着替えを持ってまたここに戻って来てください。あなたの人生の中に、未解決の問題が残っていてもいいのです。洗礼は完結のしるしではなく、ここからがスタート地点ですから。隣室にはカウンセラーが控えていますから、話もできます。大切なのはエチオピアの宦官のように、イエスを救い主として『心底から信じ』ているかどうかです。」





 ついでですが、19日に記事のコメント欄に、父の日の礼拝でパスターがハーレイ・デイビッドソンに乗って壇上に登場したという話をチラッと書きましたが、その時の様子のビデオが教会のHPにアップされたので、リンクしますね。無神論者と対話したり、いきなり洗礼を授けたり、バイクに乗って壇上に現われたり、一体どういう牧師よ?と興味のある方はどうぞ。(^^)画質はあんまりよくないですが…




 ちなみに、この日のメッセージは父の日にちなんだ男性向けのメッセージでした。男性はみんな本能的に冒険を求めるように造られている。それは、神の召しに従って生きるとは冒険に富んだ人生であり、冒険心により、男性は大胆に神に従う人生を生きることができるからである。しかし、もしも神の召しを知らないと、男性は間違った場所に冒険を求めてしまう。ギャンブル、女性関係、あるいは仕事やスポーツへの過度な入れ込み… 自分の人生における召しを回復し、主のためにワイルドに生きよう、そんな感じの内容だったでしょうか。