『魂の窓』(ケン・ガイア著 地引網出版)を読んでいたら、こんな記述があった。イエスさまは御自身をいのちのパンとおっしゃったけれど、天に帰って行かれたあと、しばらくの間、地上からそのパンがなくなってしまった。しかし、その間、世が飢えることがないように、聖書にご自身のいのちのレシピを残され、聖霊を送ってくださった。



 小麦粉や砂糖、生卵、バターなどの材料が混ぜ合わされるように、私たちの中に聖霊によってみことばの真理をしっかりと混ぜ合わせてくださいました。さらに、小麦粉が手でこねられるように、私たちは「環境」によって練られていきます。イースト菌がしばらく寝かされてふくらむように、私たちはしばらく放って置かれます。こうして、日常生活のオーブンの中に入れて焼かれるのです。


 そして再び、焼きたてのパンの匂いが地上を満たすようになります。書かれたことばと人となられたことばの違いは、レシピとパンの違いです。レシピは大切ですが、人々を引きつけるのはレシピではありません。…(中略)


 人々を引きつけるのは、焼きたてのパンの香りです。…(中略)…しかし、私たちはしばしばお腹をすかせた人に、パンを与えるかわりにレシピを与えてしまうことがあります。(pp276-277)



「私たちはしばしばお腹をすかせた人に、パンを与えるかわりにレシピを与えてしまうことがあります」 これって、本当にそうだと思う。


 情報集めのために時々ROMしている掲示板がある。主婦が大勢集まるところで、主催者はノンクリスチャン。集まる人もほとんどがノンクリスチャンのようだが、中にはクリスチャンの人たちもいるらしく、時折信仰の話題で盛り上がることもある。


 半年以上前のこと、ある女性が自分の悩みについて相談する書き込みをした。生活の中でいろんな試練があり、とても傷つき、苦しいということを切々と訴えていた。すると、それに対して常連のクリスチャンが、御言葉を引用しながら自分の証を分かち合い、最後に、「あなたもイエスさまを信じて、イエスさまにすべての重荷を委ねてみませんか」というようなことを書いていた。私はそれを読んで、何て素晴らしい証だろう、偉いなあ、この人はちゃんと世の光として輝いて…と感心していた。けれどもそれに対するその人の返事は、


「私はやはり、生きている人間に救われたいです。


人を傷つけ合うのも人間。助け合うのも人間。


手にも触れられない、目にも見えないイエスさまとやらよりも、


たとえ的外れのことがあっても、生身の人間の声が聞きたいのです」


というものだった。私は軽い衝撃を受けた。いや、かなりショックだった。私の目には素晴らしい証に思えた言葉も、彼女には無味乾燥なものでしかなかったのだ。彼女が求めていたのはまさに、レシピではなく焼きたてのパンだった。それなのに、このクリスチャンの女性は(そしてある意味、私も)、レシピを与えるだけで満足してしまっていた。そのレシピがどんなにプロの味のパンのものでも、どんなに美しいレシピカードに写真入りで記されていたとしても、所詮レシピはレシピでしかなく、人のお腹を満たすことはできない。


 『クリスチャンの成長を阻む12の誤解』(3月10日刊行予定)にも、こんな話が出ていた。子供が夜寝る時、暗闇が恐いので一人では寝たくないとごねると、母親は「イエスさまが一緒にいるから大丈夫よ」と言った。すると子供は、「でも、僕と手をつないでくれる人にそばにいて欲しいの」と答えた…


 神さまは、レシピではお腹を満たすことができないという人間のそのようなニーズを、実際に手をつないでいてくれる人にそばにいて欲しい、生身の人間に助けて欲しいという人間のニーズを、よく御存知だった。だからこそ、神であるイエスさまは肉を取られ、生身の人間になってこの地上に来てくださった。だからこそ、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14)」 そして今、私たちクリスチャンは、日々の生活の中で「受肉した御言葉」といういのちパンを焼き、焼きたてのパンというキリストの香りを放つ者になるよう召されている。


 私たち一人ひとりが、レシピではなくパンを、この世に提供できる者となれますように。 この生身の身体を用いて、キリストを体現することができますように。