本日はクリスマスである。クリスチャンなら例年この時期、キリスト降誕の意義とか考えたりするのだろうが、私にとって今年は(とくに最後の三ヶ月は)そんな考察をしているゆとりもなかった。詩編40篇17節が最近の私の気持ちを端的に表現している。


とはいえ、きょうはクリスマス。子供に降誕のいきさつを語りながら、やはり思いは自然とキリストの受肉に向かっていく。一年を通して語られたことは、キリストによって自由にされたはず(ガラテヤ5・1)の自分が、現実にはいかに不自由な生活をしてきたかということだ。自分のやってきたことの多くは、キリストに仕えたいという自発的な動機に基づくものではなく、クリスチャンらしく振る舞い、体裁を整えようとしているに過ぎなかったと思う。マタイ12・7や第2コリント9・7には、神さまはあわれみや心からの捧げものは喜ばれるが、いけにえは喜ばれない、とある。「いけにえ」とは元々ユダヤ教の律法に定められた行為だが、今日的には「やるべきだから」「やらないと罪悪感を感じるから」という(半ば強制的な)動機による行為と言い換えてよいであろう。この思いが与えられたとき、自分にとっていけにえとは何だろうと考えて、日々の実行自体が目的となってしまってよい実を結んでいなかった年間聖書通読や、このblogに無理してspiritualなことを書くのをやめた。たしかに解放され、自由になった。しかし、そのような消去法のプロセスを続けていくうちに、自分の中に心からの捧げ物と呼べるものがほとんど残らないという現実に直面して、意気消沈した。それでも、その貧しい現実を現実として「所有」することを神様が望まれているということに気づいた(ローマ12・3)。いけにえを積むことで自分の地位を上げようとする努力は不自由なばかりか、無駄だ。僕らがそうしなくてすむように、イエス様御自身がこの世に生まれ、自らいけにえになってくださったのだから。それがまさにガラテヤ5・1の言っている意味であろう。たとえ手持ちのものはわずかであっても、まずそれを喜んで捧げたい。それこそ、自由でリアルな信仰、愛によって働く信仰(ガラテヤ5・6)の第一歩だと思う。


「リアル」という点では、10月から参加し始めたセレブレイト・リカバリーの男性集会が私にとっては一大転機であった。ある危機的な状況に直面してつながったグループなのだが、「僕らは皆罪人」「僕らが成長するためには、神さまのパートナーとしてなすべきことがある」という、当然といえば当然の原則に忠実にのっとり、何の非難もなくありのままの私を受け入れてくれ、話を聴いてくれた。助け合いつつ「目をそむけてはいけない現実」にここまで正面から真摯に取り組んでいるリアルなクリスチャンたちを見たのは初めてだった。まさにエペソ4・16を地で行っているという感じだ。これが単なるミニストリーにとどまらず、教会全体がこのような姿勢を取ってくれれば、クリスチャンはもっと成長するのにと思わされている。「関係の中で負った傷は、関係の中で癒される必要がある」という文章を某所で読んだ。まさにその通りだと思う。アダムとエバが罪を犯したことで傷ついた人間と神の関係を、神御自身が人間となり、私たちとの交わりや死と復活を通して回復してくださったのだから。


Happy birthday, Jesus!