Tomokoさんから4日付の日記に、ケンスケの境界線は意識と訓練によって身に付いたというより、持って生まれた性格のような気がしますが、どう思いますか、また「境界線」と「怒り」の感情の関係についても意見を聞かせてください、というコメントをいただいきました。


 まず前者についてですが、クラウド&タウンゼント博士は、境界線は遺伝するものではなく、生涯続く過程を通して形成されていくものであり、その中でも一番大切な段階は幼少期だと言っています。(『境界線』p.100) Tomokoさんは『「境界線」はしっかりとした意識と訓練のもとで、少しずつ身につくものという私の認識が覆された感じ』とおっしゃっていましたが、その認識の通りで、覆さなくても大丈夫だと思いますよ。(^^)私は、ケンスケが生まれる前後に『バウンダリーズ』に出会ったので、ケンスケの育児には最初から境界線を随分意識して取り組んできました。上の3人の子供たちにも同時に取り組み始めましたが、やはり、年齢が低いうちから始める方が、効果の現れ方がてきめんに違うようです。もちろんケンスケの持って生まれた性格が、彼の境界線形成に大きな影響を与えているのも確かだろうと思います。また、教会の幼稚科の先生や、幼稚園の先生も「境界線」のコンセプトを持っている人たちで、ケンを取り囲む大人たちがみんな同じ価値観を持ってケンスケに接してくれているのも、彼の境界線形成にプラスになっているように思います。


 私が「境界線の形成を意識した育児」と言うとき、具体的には何をしてるのかなぁと考えると、まず次の3点でしょうか。(1)何が彼の境界線の中にあるものなのか(感情、選択、行動、願い、等)を親がまず意識し、尊重し、それらのものに対して本人が自分で責任を取れるように(つまり、適切に対応できるように)励ましてあげること、(2)自分の行動や選択と、それがもたらした結果のつながりが、良きにつけ悪しきにつけ、本人にもはっきりわかるよう助けてあげること、(3)現実に直面させること。(もちろんこれらのことの先立って、十分な「絆作り」が必要です。)


 (1)に関しては、何が「自分」であり、何が「自分でない」のか、どこまでが自分の責任、「所有権」の及ぶ範囲でありどこからがそうでないのか、子供自身がよくわかっていないので、まずそれを本人が意識できるように促し、適切に表現するよう助けてあげることです。親は子供の年齢に応じて教え、助言し、見本を見せるなどをしますが、究極的に子供の境界線の中のことは、子供の問題であるということを尊重します。(2)に関しては、自分の行動とそれがもたらした結果は、小さなな子供にはなかなかその因果関係が見えないと思うので、それを言葉なり何なりで表現して子供に指摘してあげることです。たとえば子供が良いことをした結果、良いことが起きた時には「ケンが~~したからこうなったね、よかったね」と言い、良くないことをした結果、痛みが生まれた場合には「ケンが~~したからこうなったね、残念だったね」と言う、という具合です。(3)に関しては、自分の選択がもたらした結果から助け出さないこと、親や他の人にも境界線があり、ケンはそれを尊重する必要があること、世の中には自分の力ではどうにもならないことがあること、などを経験させることでしょうか。(クラウド博士たちは、「平静の祈り」はまさに「境界線の祈り」だ、とおっしゃっていましたが、本当にそうだなぁと思います。)


 ただ、これと同じことを上の子供たちにやろうとすると、親にとっても本人にとっても、痛みや抵抗がもっと大きくなります。上の子供たちは、これまでの人生で、「自分の行動や選択の責任を取る」などということをあまり明確に訓練されてきていないので、やっぱり抵抗するんです。また、「自分の行動や選択の結果」というものは、年齢が上がれば上がるほどより重みが増していくので、それがネガティブに出た場合,その分痛みも大きく、親にとっても辛いプロセスになります。だから、境界線形成が早ければ早いほどいいというのは、本当ですね。


 それからもう一つ指摘しておきたいのは、境界線が形成されつつある子供=親の期待通りに動いてくれる模範的な子供、ではないことです。むしろその逆で、境界線が形成されつつある子供は、主体的に自分で選択をすることを学んでいる最中なので、親の期待通りにはなかなか動いてくれないのです。ケンが遊園地に行くはずだったのにちゃんと起きなかったのはその良い例ですよね。その代わり、自分で選択したんだという自覚を持ち、その結果もまた自分の責任として潔く受けることも学びつつあるわけです。ケンスケも、決していつも親の言う通りにしてくれる優等生の坊やというわけではありません。Far from it! ほんとに毎日手こずらされています。また親の側も不完全な人間ですから、失敗も多いです。何をするにも、祈りつつ主に助けていただきながらでないとできませんよね。子供が主体性を学ぶのは、霊的成長のうえでも欠かせないことだと思います。親の信仰をそのまま鵜呑みにするのでなく、子供が最終的には親も他の誰をも介せずに、自分と神さまとのパーソナルで親密で確固とした関係を築けるようになるために、主体性は不可欠だと感じます。


 まぁこんなことを言っていても、実際どんなふうに育っていくのか、もっと後にならないとわからないですし、とにかく私自身、成長のプロセスの中にある者ですから、試行錯誤の連続です。神様の日ごとに新しい恵みと憐れみなしにはとてもできません。


 


 次に「境界線」と「怒り」についてですが、「怒り」の感情は、神様が理由をもって私たちに与えてくださっているものなので、どんなに境界線がしっかりしてきたからといって、それが全く必要なくなる、ということはないと思います。ただ、怒りの役割の一つに、「境界線が侵害されたことを知らせる」ということがあるので、境界線が明確になり、それが適切に機能するようになっていけば、確かにその分、むやみに怒る必要はなくなってくると思います。


 


 私も、わからないこと、悩むことはたくさんあるので、聖書という神様の真理と秩序に従いたいと思っている者同士、これからも互いに励まし合い勧め合っていきたいですね! どうぞよろしくお願いします。(^^) コロサイ3:16