今日はピョコピョコwalkさんからトラックバックをいただいた。早速見に行ったらそこにはヨハネ21:4-14の記事について、こうあった。



漁は空振り、なにもとれない、くたくたの彼らに、jesusは声をかける。


弱さ責めるのではなく、jesusとわかる奇跡に、アドバイス。


そして、あたたかい炭火で焼いた魚に、パンを用意してくださっていた。


復活された体に、食事が必要なのかわからないが、必要とする人たちと一緒に食事をするjesusの姿が心に深く残る。


その後、お腹を満たした後、jesusはペテロの心の傷を会話の中でいやされる。



「復活された体に、食事が必要なのかわからないが、必要とする人たちと一緒に食事をするjesusの姿が心に深く残る…」私もイエスさまのその姿に思いを馳せ、朝から涙ぐんでしまった。 


 今まで考えたことなかったけど、もしも不漁と徹夜でくたくたのペテロに、いきなりイエスさまが「わたしを愛しますか」と聞いていたとしたら、イエスさまの言葉はペテロには重すぎてとても受け取れなかったかもしれない。イエスさまを知らないと3度も言ってしまった後で、ただでさえ自己嫌悪に陥っていたに違いないのだし。ここでのイエスさまとのやり取りはペテロの癒しと回復にとって必要なプロセスだったのだろうけれど、だからといっていきなりイエスさまがたたみかけていたら…? でも、イエスさまはそうはしなかった。まず食事をして、炭火を囲みながら心安らぐ交わりをして、ペテロの疲れた身体と心を解きほぐして、それから彼の霊の深い部分に触れられた。 何か、「リカバリー」の働きの本質がここに見えるような気がする。


ピョコピョコwalkさんの素晴らしい気づきに、私も恵みを分けていただきました。どうもありがとう!