木曜日の晩のこと。金曜日のミッショネットFun Nightの準備のために、何人かの婦人たちと教会に集まっていた。私は70代半ばのおばあちゃん(とはいっても、まだ元気で、若々しい素敵な人)と二人で、数ダースの風船にひもを付けるという作業をしていた。たくさんの風船が大きな袋に入って床のうえに置いてあって、私は腰を屈めては一つずつ風船をとってひもを付けていた。しばらくしたらおばあちゃんが、「こうしたらどう?」と言って袋を持ち上げ、大きなテーブルの上に風船を広げた。これならいちいち屈む必要がない。


 「グッドアイディア! 私ったらどうして思いつかなかったんだろう!」と言うと、彼女は


 「That's why we work together! (だから私たちは一緒に働くのよ)」とウインクをした。


 That's why we work together... 彼女の言葉になんだか胸がジーンとした。


 「You are right! We work together so that we can complement and enhance one another. That's what the body of Christ does!(その通りね! 私たちはお互いを補い合い、高め合うために一緒に働くのね。それこそまさにキリストの身体がすることよね!)」


 二人でニコニコうなずき合いながら、幸せな気持ちで風船にひもを付ける作業を続けた私たちだった。


 それからもう一つ。実は夕べのFun Night、みんはお家でお留守番だった。なぜかと言うと、みんの部屋がものすごく散らかっていたので、時間までに片付けないとFun Nightには行かせませんよと言ったのに、みんはだらだらして結局片付け終わらなかったのだ。出かける時になって、「私も行きたい」と半ベソになってるみんを置いていくのは私もとても辛かった。だけどここで行かせてしまっては、みんはいつまでたっても学ばない。だいたい私は今までも、○○しなかったら××ですよ、と言いながら、子供が約束通り○○をしなかったときについ余計な情けをかけてしまい、××しないで済ませてしまうことが何度かあった。本当はそれはいけないんだよね。言ったことはきちんと最後まで通さないと、子供のためにもならない。それで昨日は心を鬼にして、みんを置いて行った。


 だけど教会まで行く道すがら、厳しすぎたんじゃないだろうかとか、ついくよくよ考えてしまって、気持ちが沈んだ。教会に着くと、案の定皆が「あれ、みんはどうしたの?」と聞く。私は泣き出しそうになりながら正直に事の次第を話した。「みんには可哀想だったけど、私だって辛かったのよ。でも言ったことはちゃんと実践しないと、いつまでたってもみんも学ばないし」 するとミッショネットのクラスで私のパートナーでもあるベッツィーが「その通りよ。はちこは正しいことしたわよ。辛い気持ちはよくわかるわ。躾けるって、親の方が辛いのよね。でも、はちこのしたことは正しかったわよ」と励ましてくれた。この言葉にどれだけ救われたことか!


 境界線を引き限界を設けることは相手にも自分にも痛みをもたらすものだと、この日記でも何度か書いたけれど、言うは易く行なうは難し。特に相手が子供だとなおさら。だけどこうして一緒に立って支えてくれる人が身近にいるとはなんと感謝なことだろう。育児も一人でするものではないなとつくづく思った。


 みんはと言えば、私が帰宅すると「部屋、ものすごくきれいになったよ! すごく久しぶりに机の表面が見えるようになった。」どれどれ、と見に行くと、おお、新しい家に引っ越したかのように片付いている。こうでなくっちゃ。本人も満足そう。そして彼女はこう言った。「あのね、ママが出かけてる間に、パティから電話がかかってきて、明日パティの教会のユースグループのボーリングパーティーがあるんで一緒に行かないかって誘われたんだけど、行ってもいい? 本当は前から誘われてたのを、すっかり忘れてたの。」 もしもこの晩私が変な情けをかけてみんを教会へ連れて行っていたら、みんの部屋はまだ片付いてなくて、ボーリングパーティーに行かすわけにはいかなかったけど、ちゃんと片付け終わっていたので、もちろんオーケーだよと許可をあげることができた。みんは大喜び、私も嬉しかった。神さまの恵みを感じた。


 今夜は、夕食の支度をしながらここ数日の神さまの恵みを反芻していたら、もう涙が流れて流れて。泣きながら野菜を刻んだり炒めたりしていた私の姿は、他人が見たらさぞ奇妙な光景だっただろうな。(笑)Jesus, thank You, and I love You!