春学期は10週間のうち、やっと3週間を消化した。先が長いなあ。講義を担当している学期は特に憂鬱で、毎朝出勤するのが気が重い。何を隠そう、私は講義が大の苦手なのである。同じ内容の講義を13年間も教えていればだんだん慣れてきそうなものだが、毎回準備を入念にし、何時間もかけて話の組み立てを考えているにもかかわらず、年を追うごとに苦痛になっていくのは、基本的に講師に向いていない性格なのだと思う。アレルギーみたいなものかもしれない。そもそも私は次の5点が決定的に不得手であり嫌いである。




  1. 人前で話すこと

  2. 人の話を聞くこと

  3. 電話に出ること

  4. 掃除をすること

  5. 頼みもしないのに誰かが自分の部屋を掃除してしまうこと


 これらは純粋な研究職であればそれほど問題ないかもしれないが、教官として9ヶ月分の給料をもらっている以上、講義をしないわけにも行かず、頭痛の種となっている。(大学によってはアシスタントにかなり講義をまかせることができるところもあるが、うちは全て教官が担当する決まりである。)問題のひとつは、何ていうのか、自分で話していたり人の話を聞いていると、次々に良いアイデアが浮かんで来てそっちに気をとられ、話の本筋が上の空になってしまうことだ。そうならないようにするには相当意識して気を張りつめていなければならず、一つの講義が終わると精神的にマラソンを走った後のようにぐったりしてしまう。講義の出来の良し悪しに関係なく、である。


 同じ理由によって、毎月のノルマである教授会の議事録制作や、人のセミナーを聞くことなどもとてもしんどい。一時間のセミナーの場合、一言も聞き漏らすまいとするより、最初の5分と結論の5分だけ集中して聞き、残りは(居眠りはしないまでも)頭を使わずぼけっとしている方が、後まで印象に残る確率はずっと高いようだ。


 こういうわけなので、普段から人の集まる学会のようなところは極力避けているのに、研究費を頂戴している米国科学基金の担当者から「論文だけではなく、たまには学会に出るように」とのお達しがあり、6月に7年ぶりに学会で口頭発表をすることになった。20分間の辛抱とはいえ、これのためにわざわざボストンくんだりまで飛行機で出かけるのかと思うと、やはり気が重い。それでも、2時間訪問者と顔を突き合わせて説明しなくてはならないポスターセッションよりはましだが。


 さらに追い打ちをかけるように、今学期末には流体実験室の落成記念祝賀会があり、責任者の私はそこで何か話さなければならないことになった。そういう大げさなことは無しにしようと思っていたのに、学部の広報課が話を聞きつけて、卒業生にまで招待状を出してしまった上、テレビ局が取材に来るとかいう話に発展してしまった。考えるだけで気が沈む。(はちこは何故かこの機会を楽しみにしているようで、今から着ていく服を選んでいる。)


 まだまだ予断を許さない春学期。そういえば、きょうは一念発起して、私のテリトリーであるガレージの掃除をした。(一年に一回だから「一年発起」と言ったほうがいいかも)このままほうっておくと、見かねた誰かに片付けられて大事なものがなくなるというパターンが予想されたので。始めるまでの「いやだよう」という心理的なポテンシャル井戸からはい出すのにエネルギーの大半を費やして、よろよろとホーキをふるう。さいわいあしたは講義のかわりに中間試験だ。ほっと一息。