家内の佐知と私が米国のニュージャージー州で大学院生として初めて出会ったのは1987年の秋、二人が大学のキャンパスで結婚したのが1989年の夏。この2年間にいろいろなことがあった。彼女はクリスチャンで、いつしか誘われるまま、私も一緒にキャンパスの向かいの教会に通うようになった。そもそもカトリックの家庭に育った私には、教会にも超自然的な神という概念にもそんなに違和感はなかったのだ。しかし、人生の目的やキリストの死と復活の意味などについて、あまりつっこんで考えることはなかった。自分の生活にはそれなりの充足感があり、とりたてて神の必要を感じていなかったからである。二人が結婚を考えるようになる頃、私にとっては彼女が全てであり、神様の存在はオマケでしかなかった。


1988年の秋に私が学位を取り、ワシントン州のシアトルで就職してからは、二人は一時的にアメリカの東西海岸に離れ離れの生活となる。何カ月かにいっぺん私がニュージャージーに帰った時に、会場の下見をし、招待状の印刷を注文し、貸衣装屋さんや花屋さんを駆け回った。司式は私たちが通っていた教会の副牧師さんにお願いすることにした。この先生から、結婚カウンセリングをするので二人でいらっしゃいと教会の事務所に招かれたのは、日本の友人たちに招待状を送り出してしばらく後であった。


カウンセリングとはいえ、どうせ結婚への心構えなど通りいっぺんのお説教と、「では頑張って下さい」みたいなことを言われるだけだろうと軽く考えていたら、とんでもない誤りだった。牧師さんはまず私たち一人一人に、「イエス・キリストとはあなたにとってどんな人ですか」と聞かれたのである。佐知はもちろん、すらすらと答える。しかし、私の頭の中には、カトリック系の幼稚園に通っていた20何年も前のぼんやりしたキリスト像しかなく、適当なことを言ってお茶を濁すしかなかった。すると、牧師さんの表情が固くなり、少しの間をおいて、彼はこう言った。


 「この結婚、先に延ばすことはできませんか。」


寝耳に水とはまさにこのことだった。(どういうことですか。頭を下げて司式をお願いしにきてるのに、先に延ばせとは。式場はもう予約してあるし、招待状だって出しちゃいましたよっ。)私の動揺をよそに、牧師さんは続けた。


 「聖書には、『信者と未信者がつりあわぬくびきを負ってはいけません』と書かれています。


  昇さん、あなたがキリストを信じるまでは、私はこの司式を引き受けることはできません。」


穏やかな、しかし妥協を許さない口調であった。私には、キリストを信じることと結婚がどう関係しているのかわからなかった。わかったことは、この先生は私たちがこのまま結婚することには反対だということだった。いろいろな思いが頭を駆け巡ったが、とりあえずその場はこれから聖書の学びを始めるということにして教会をあとにした。後になって佐知から聞いた話では、彼女もこの御言葉を全く軽く考えていたので、目を覚まされる思いだったそうだ。


一人になって、これからどうするか冷静に考えた。「結婚をあきらめる」。これは問題外。「別の、結婚に賛成してくれそうな牧師を探す」。これも、いかにも安易だ。第一、一人でも自分の結婚にあからさまに反対の人間がいるというのは気分が悪い。『つりあわぬくびきを負ってはいけません』。頭の中でこの御言葉が何度もプレーバックした。初対面の相手にあそこまで単刀直入に言うからには、あの牧師の信じているものは本物なんだろうな。結論はひとつしかないようだった。「クリスチャンになって、佐知と結婚する」。


そうと決めた以上、私は気持ちを入れかえて以前に彼女からもらった聖書を読み始めた。この時点で私はまだ漠然と、すべては自力で解決できると思い込んでいた。結婚式のことではすでに多くの障害を乗り越えてきた。アメリカで手作りでやろうとしているのだから、当然だ。クリスチャンになるというのも、結婚の条件としては楽なことではないが、聖書を一生懸命読めば何とかなるのではないか。そんなふうに考えていた。小さい頃から、問題は地道な努力で解決せよと両親に教わってきたし、それを実践して大学院で学位をとるところまできたのだから、今度も大丈夫という妙な驕りがあったと思う。


事がそう簡単でないとわかるまでに、長くはかからなかった。ひもといた聖書は分厚くてとらえどころがなく、どこから何を学び始めていいのやら、皆目見当がつかない。シアトルから東海岸の彼女に電話して手ほどきを受けながら、救いに関するヨハネの福音書の3章16節やローマ書の5章8節などを読んではみたが、これがどう自分に関わっているのか、心に響くものがない。電話での会話も、「あなたには、自分がイエス様を十字架につけたという自覚が無いの?」「どうして俺が2000年前に死んだ人を十字架につけられるんだよ」というレベルで、全く進展がなかった。信仰は自分の努力では手に入れられない、という事実に直面せざるをえなかった。俺たちの結婚はいったいどうなるんだ?自分の無力さを感じて初めて、私は「祈る」ということを覚えた。


(イエス様。あなたが本当に生きていて、祈りに答えてくださる神様なら、私にあなたを信じて救われるとはどういうことか教えてください。)


半信半疑の祈りだったが、不思議なことに、これを境に聖書を読むたび、今まで目をつぶってきた自分の醜い部分が少しずつ意識されるようになった。たとえば自分を体裁よく見せるために事実を少し曲げて報告すること。これくらいは別にいいよなと、私なりに正当化してよくやっていた。しかし、捧げ物の額を偽ったアナニヤとサッピラのくだりを読んだとき、もし彼らが聖絶されるのであれば、自分は到底赦されないだろうと思われた。このほかにも、思い通りにならない時に親にぶちまけた暴力暴言や、意図的に人を傷つけたり見下した発言をしたことなどが、ひとつひとつ鮮明に回想され、暗澹たる思いにかられた。外側をどんなに取り繕っても、内側には病める自分が眠っていたのである。これらについて、もうすんだことだからと水に流すことは、悪業の張本人である私自身にはできなかった。病気を治すのは医者であって、本人がいくら治ったと言い張ってもはじまらない。私には救い主が必要なんだと、おぼろげながらわかってきた。もともと酒も煙草もやらなかったし、どこを叩いても人様の前に恥じることなど何も出てこない、漠然とながらもそう思っていたが、この世の尺度とは全く違う視点から私を見ておられる方がいることを知った時、自分がいかに自己中心的で、驕りに満ちた存在であったかを思い知らされた。それを神が罪と呼ぶなら、私は正真正銘の罪人ではないか。


もし私の罪を帳消しにするためにイエス・キリストが磔刑に処せられたなら、確かに私が彼を十字架につけたということになる。私にとってこれは衝撃的な発想であった。キリストが神であるというだけなら、別に他にも救い主はあるんじゃないかとも思えるが、彼が私のために個人的に体を張ってくれたとなると話は別だ。今の私があるのは、多くの人々が私のために体を張ってくれたお陰である。バスのない週末に高熱を出した私をおぶって、5キロの田んぼ道を病院まで歩いてくれた母。君にはそれがベストだからと、学内進学という内規に反して国立の中学校への進学を勧めてくれた私立学園の小学校の先生。彼はこれがもとで職を去った。私の大学の成績が悪かったにもかかわらず、「こいつにはガッツがあります」と入学を推薦して下さった、大学院の日本人の先生。コネが効かないはずのアメリカで、無理を通して下さった。私にとってのヒーローたちである。とすれば、私の罪のために死んだキリストは、私の究極のヒーローということではないか。


聖書の他にも、多くの本を通して、キリストの愛について教わった。三浦綾子さんの「塩狩峠」など、特に印象に残っている。私は自分の婚約者を世界中で一番愛していると思っていたが、キリストが求めている愛とは全然次元が違うことがわかった。逆に、自分勝手な私には何と本当の愛が欠けているのであろうかと、恥ずかしい気持ちになった。隣人のために自分の命を捨てるどころか、デートの最中に暴走族のオートバイの爆音が近づいて来ただけで、愛しているはずの婚約者を置き去りにして一人で走って逃げ出すような輩だったのだから。


かくして、再びニュージャージーに戻るまでに、私はイエス様を救い主として受け入れる決心ができていた。罪人の祈りと同時に、「キリストが教会を愛したように」私も佐知のことを愛することができますようにと祈り、二人揃ってのクリスチャンとしての歩みが始まった。結婚式の4ヵ月前だった。結果的には結婚が信仰のきっかけとなったわけで、動機が不純だったのでは?と言われればそれまでだが、いわゆるエリート街道を挫折らしい挫折も経験せずまっしぐらに突き進んで来た私にとって、このようなきっかけでもなければ到底神様のもとへ目を向けることなどなかっただろうと思うと、これもまた神様のご計画の一部だったのだと、その御業の不思議に驚嘆する。


私たちは今もアメリカに住んでいるが、礼拝に家族揃って出席するのはもちろん、教会内外で夫婦として様々な宣教の働きに関わらせていただいている。家庭の中心にイエス様がいて下さるというのは何と素晴しいことであろうか。「未信者と異なるくびきを負ってはいけません」という聖書の教えは、ただの窮屈な結婚の条件ではなかったのだ。神の御言葉を妥協することなくはっきりと語って下さったあの牧師先生に感謝、そして何より、私を救い 、私と私の家族を守り導いて下さっている主キリストに心から感謝である。


CNV00018_4

2002年春 パリにて