(本稿は2001年英国ケンブリッジJCFクリスマス礼拝での証です。)


こんにちは。中村佐知と言います。先程から通訳をしている中村昇の妻です。私たちには十歳、七歳、四歳、八ヶ月の四人の子供がおり、上の三人は女の子です。ケンブリッジには今年の七月の末に、1年間の予定でやってきました。今日は、私とイエス・キリストの関わりについて短くお話させていただきます。


私が初めて教会へ行ったのは中学二年生の時でした。そこの教会は牧師さんがアメリカ人宣教師で、私はそこが教会だとも知らずに英語を習う目的で訪れたのがきっかけでした。特別キリスト教に興味があったとか、神様を求めていたというわけではなかったのですが、英語の先生に会うのが楽しみで熱心に通い始めました。


最初のうちは平日に持たれていた英会話教室にだけ通っていたのですが、あるとき日曜日の朝に教会学校もやっているので来ませんかと誘われ、先生を大好きになっていた私はすぐに「行きます!」と返事をしました。次の日曜日の朝に早速教会へ行ってみると、中学生は私だけだったため、牧師さんと1対1で聖書のお話を聞くことになりました。そこで、私は長年の(?)疑問を解消することが出来たのです。


私の疑問とは、私はなぜこんなにも癇癪もちなのか、ということでした。今の言葉で言うと、私はとてもキレやすい子供だったのです。私は外面は大変よく、学校でも生徒会の役員をやったりして優等生で通っていました。それなのに、家では年中癇癪を起こして、母の手を焼かせていたのです。何か自分の思い通りに行かないことがあると、キレては母に当たり散らしていたのです。しかもその当たり方も尋常ではなく、いつも大癇癪を起こしては後からひどい自己嫌悪に陥る、ということをくり返していました。どうして私はこうなんだろう、どっかおかしいんじゃないだろうか? と真剣に悩んだりしていました。表向きは優等生でも、内側には劣等感があり、自分を責める思いに満ちていました。


この疑問がどう解消されたかと言いますと、牧師さんはその朝私に、私たちの心の奥底には、自己中心に生きたい、自分の好きなようにやりたいという欲求が息づいていて、それが生活のなかでいろいろなトラブルとなって出てくるのですよ、というようなことをおっしゃったのです。そしてそのような自己中心な思いというのが聖書のいう「罪」で、だから私たちは実はみんな罪人なんですよと教えてくださったのです。


私はそれを聞いて、驚くと同時に嬉しくなりました。そうか、私は「罪人」だったんだ! だからこんなふうに親不孝の我がままにふるまってしまうのか、と妙に納得出来てしまったのです。こんなことを言われて喜ぶ人なんて、私くらいかもしれないですね。もしも人間は全て罪人です、という話しだけで終わってしまったら、いくら納得出来たとしても、絶望的です。文字どおり救いがありません。でも、牧師さんのお話はそこでは終わりませんでした。人間をそのような束縛から解放するために、神であるイエス様が人となってこの世に来てくださり、私の罪のつぐないをするために十字架にかかって死んで下さいました、もしあなたがそれを信じてイエス様を救い主として受け入れるなら、あなたは許され、解放されるんですよ、というようなお話をされたのです。


なんと言うんでしょうか、「あなたは実は病気を持っています、あなたにいろいろな症状が出ているのはそのせいです」と診断を下されたうえで、「しかし心配するに及びません、この治療さえ受ければあなたの病気は直ります」と言われたような感じがしたのです。病気の宣告をされるのは恐ろしいことですが、それによって確実に癒される治療が受けられるのなら、本当は病気なのに「大丈夫、大丈夫」とほったらかしにされるよりはるかにありがたいことではないでしょうか。


ですから私はその朝、とびつくようにしてイエス様を私の救い主として受け入れました。聖書もほとんど読んだことがない、キリスト教のことは実質何も知らない私でしたが、自分が罪人だということだけは納得できましたし、イエス様の十字架を受け入れればその罪が赦されるのだということも不思議と素直に信じることができたからです。さきほど、キース先生がイエス様はギフトであるとおっしゃられましたが、私もその日、まさにギフトを受け取るようにしてイエス様をいただいたたのです。


とはいえ、正直に言いますと、その後もまだたびたび癇癪を起こすことはありました。でもだんだんと、私を振り回そうとする怒りや、自己嫌悪の感情などを全部イエス様のところにもっていくことを学びました。よく、もって行き場のない思い、やり場のない感情などと言いますよね。私の場合、確かに今まで通り、ガーっと落ち込んだり怒ったりいろいろな感情はあるのですが、やり場がちゃんとあるのです。どこに持って行ったらいいかわかるようになったのです。だからもはや自分のなかに鬱積するということがなくなりました。イエス様というお方は、私の一番醜い部分も、一番弱い部分も、全部受け止めてくださるお方です。そして私に必要なことを教え、助け、導いてくださるのです。


中学生の時に単純にイエス様を受け入れた私は、あれから20数年たった今でも、紆余曲折はありましたが、まだイエス様を救い主として、私の主として信じ続けています。もちろん、クリスチャンになったからといって全ての問題が解決し、何もかも順風満帆かといえば決してそんなことはありません。大人になって、結婚して、子供が出来て、当然のことながら中学生の頃よりも深刻な問題にぶつかるようになりました。特に、育児のことは私にとって目下一番の課題です。それでも、困難が起きた時にどこに逃げ込めばいいのかわかっているというのは心に安定感や安心感を与えてくれます。今のような先行きの不透明な時代に生きていても、平安と希望があります。


イエス様が私たちへのギフトとして与えられたことを感謝します。


CNV00036
グラフトンセンターにて。2001年クリスマス。ケンと。