先月に私が受けたスピリチュアル・ディレクションで印象に残ったこと。
 
 しばらく前のRichard RohrのDaily Meditationで彼が言っていた、「ミステリー(奥義)とは、知ることができないものではなく、無限に知ることができること」というフレーズが私たちの話題に上った。

Mystery is not something you can’t know. Mystery is endless knowability. (Richard Rohr)

 これはたとえば、神様(あるいは神様のなさること)がミステリーだというとき、必ずしも私たちには知りようがないということではなく、神様(あるいは神様のなさること)を知る方法や、神様(あるいは神様のなさること)について私たちが知ることのできるものは、無数にあるという意味だろうか。私たちは、たとえ不完全にではあっても、少なくともある程度は、神を知ることができる。ただ、神を知るためのどんな方法も、「これが神を知るための唯一の方法(道)」でなければ、「神とはこういうお方」と完結したリストを作ることは、*私たちには*できないのだろう。

 信仰の旅路を歩んでいく中で、今まで自分が神について知っていたと思っていたことが、根底からひっくり返されるかのように感じることがある。そして、自分がこれまで持っていた神観の修正を迫られる。神様はこういうお方、と自分なりに整理ができて、納得して、安心していたら、神様があるとき、思いがけない形で私に出会ってくださっちゃうことがある。それが、今まで自分が納得していた神様とは、まるで矛盾するかのように思えることもある。でもそうやって、私の神観が何度も修正されていくのは感謝なこと。

 そして、endless knowabilityとは、決して何でもアリでもない。明らかに神様ではないもの、神様とは相容れないこともある。ただ、この「明らかに」という部分が曲者で、これまで自分にとって「明らかに〜〜だ」と思っていたことが覆されたりすることがあるから…

 また、この「神観の修正」は、知識面だけではない。実際、神についての新しい知識が増えていくというより、神について知るモード(mode)が変化するという側面もあるかと思う。知識として知っていたことを、体験的に知るようになる、などのように。
 
 そういえば、私が受講していたスピリチュアル・ディレクションの講座では1年目が終わった時点で、「Theological assumption paper」というレポートを書くという課題があった。これは、私自身のこれまでの神観の変遷について振り返るというもの。以前の私は神様をどのようなお方として知っていて、今ではどのようなお方として知っているのか。その結果、私と神様の関係はどのように変化したか…

 私のスピリチュアル・ディレクター(彼女もこの講座の卒業生であり、今では講師の一人)は、今でも、数年ごとにこのレポートを自分のために書いている、と言っていた。何年経っても、神様はなお新しい形でご自身を現してくださり、そのたびに自分の神観がチャレンジを受け、修正され、押し広げられていくから、と。私もそれをトライしてみるといいかもしれない。

 EndlesslyにKnowableな神様。だからこそ神様は、私たちを何度も、いろいろな方法で、ご自身を知るようにと招いてくださる。そして、それが「招き(invitation)」であるというのもミソかもしれない(cf. ルカ14:16−24)。先日だれかがこう書いていた。招くということは、自分自身をvulnerableにすることでもある、と。なぜなら、招くときには、自分の招きが拒絶される可能性も含まれているから、と。神様は、ご自身が拒絶される可能性もあることを承知で、私たちを招いておられる。inviteしておられる。神様を知るように。もっと知るように。神様と交わるように。もっと深く交わるように。

 そして、今この地に生きている私たちが、どれほど深く神様を知るようになったと思っても、それでもなお、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ているにすぎない…
今、私たちはにぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12)

 その日を待ち望みます。

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先月の中秋の名月。iPhoneなのでこの程度の写真しか撮れない…