先日のビデオの日本語版を夫が作ってくれた。

 なぜか口調が江戸っ子なんですが。(彼の両親が江戸っ子だったせいか、彼自身は横浜育ちなのに言葉遣いはけっこうべらんめえ調なところがあって…)

 

 
 この中で、私にとって特に響いてくる箇所が二箇所ある。

 私たちは門限を守るのが当然だ考えていたとき、彼女は孤独な友人に寄り添うことが当然だと考えていた。
 私たちは自分のお金は責任をもって管理するのが当然だと考えていたとき、彼女は困っている友人を自分のお金で助けてあげることができるなら、そうするのが当然だと考えていた…

 あの子は、本当に、保身にまわるよりも、ある意味自分の危険をおかしてでも、友を助けようとする子だった。


 そしてみんは、神様にすがることも、神様がみんの助け手として送ってくれた親に頼ることも、決して放棄しなかった。自分の状況がどんなに絶望的に見えても、あきらめなかった。

 でも、みんが神様にすがることをあきらめなかったのは、死の準備ができていなかったからではない。亡くなる1週間くらい前だったか、ホスピス病棟に入院したとき、みんが自分の死の可能性について口にしたことがあった。私は、「あなたはまだ死なない。お母さんはあなたを死なせたりしない」と言ったのだけれど、そのとき、「でも、もしも死ぬとしても、どこに行くのかわかっているね?」と尋ねたら、彼女はしっかりとうなずいたのだ。みんの中では、癒しをあきらめないことと、死を受け入れることとが、不思議と調和していたのだろう。それは、そのどちらもが、みんの神様への全幅の信頼を表すものだったからなのだと思う。

 互いに相容れないことでありながら、そのどちらをもしっかりと直視してホールドする。そして、それらがもたらすテンションを引き受ける。橙色に輝く線香花火の火種は、今にも落ちそうなときがいちばん大きく輝くときであるように、そのテンションの中から生まれる輝きはひときわ美しいのかもしれない。私たちの目から見たら一時のはかない輝きかもしれないけれど、神様の目から見たら、神様の時間から見たら、それは永遠の輝き。神様はもしかしたら、この世をそんな輝きで満たしたいと思っておられるのかもしれない。この世の不条理がもたらすテンションを、負いがたきものを、信仰と、希望と、愛によって引き受けていくときの輝きで。


線香花火