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 いろいろ落ち着いてきたかなぁと思ったところで、ここしばらく、一ヶ月くらいだろうか、悲しみが戻ってきている。胸が詰まるような苦しさを感じる。

 あの子を助けることができなかった、あの子を死なせてしまったという思いが突如として湧き上がる。もちろん、子どもを亡くした親がそういった罪悪感や無力感を感じてしまうのは普通のことで、それもグリービングプロセスの一部であることは重々承知しているけれど、だからといって、それを感じなくなるわけではない。先週、先々週あたりは、また毎日声をあげて泣いていた。(ある朝など、私がソファーに突っ伏して泣いていたら、工事の人が突然現れて、お互いに動揺したこともあった。その工事の人は私の娘が亡くなったことは知らなくて、「実は娘が3月に亡くなって…」と写真を見せると、驚きながらも、「悲しいのは当然ですよ。どんどん泣いてかまわないですよ」と言ってくれた。そして、「お嬢さんのことを聞かせてください。病気だったのですか?」と、私にみんのことを話す機会も与えてくれた。この人は私と同じ教会に行っているクリスチャンでーーメガチャーチなので面識はなかったけれどーー、「お祈りしますね」と言ってくださった。日常のちょっとしたことの中にも、神様の慰めは注がれている。)


 悲しみが戻ってきたとは言っても、毎日泣き暮れて何も手につかなくなっているわけではない。すべきことはちゃんとできているし、自分自身のケアもちゃんとしている。 (今週から、パーソナルトレーナーについてついにトレーニングを開始!)でも、先週、健診で病院に行ったら、なんと血圧が高い(140/78)と言われて驚いた。私は血圧はいつも110/60くらいで、問題があったためしがなかったのに! 心に負担になっていることが、しっかり体にも伝わっているんだなぁと、改めて実感した。しかし感心している場合ではないので、早速自宅で使える血圧計を購入して、モニター開始。今のところ、あんなに高かったのはその日だけで、その後は高いほうの数値も120代なので、多分大丈夫だとは思う。(今日は婦人科の健診で病院に行って血圧を計ったけれど、124/70だった。)ただ、それでも普段の私の血圧より高いのは確かなので、いちおう気をつけていよう。主治医とは三ヶ月後に再診。

 子どもたちは、ま〜やは先週ボストンに戻った。エミは夏はいろいろ忙しくてあまり会えなかったけれど、来週ほんのちょっとだけ帰省してくれる。彼女は今、大学院入試の準備中。特殊教育(特別支援教育)で修士を取るらしい。仕事をしながらなので、4〜5年かかるとのこと。大学までは学費は出してあげるけれど、大学院は自分でね、と昔から言っていたので、本人もそのつもりでいる。ケンは相変わらず。最近テニスのレッスンに通っている。次のテニスの試合のシーズンまでに腕をあげたいようだ。サックスのほうも頑張っている。アルトに加え、テナーサックスの練習も始めた。

 夫は、この夏はものすごく忙しかったのだけれど、ようやくひと段落した様子。大学の授業が始まるのは9月末からかな。

 私も、昨年12月から丸々半年以上ストップしていた翻訳の仕事を再開。JCFN関連の働きも再開。9月からは、婦人バイスタも再開させたい。

 そんな感じに、ゆっくりながらも前向きに進んではいる。ただ、笑っていても、何かで忙しくしていても、心の中に悲しみがあることを意識している。そして、この悲しみは少なくとも次の六ヶ月間はまだ生々しく私を何度も襲うのだろうと思う。特に11月半ばから3月までは… 「去年の今頃は…」と思っては、胸をかきむしりたくなるような、足を踏みならしたくなるような、地べたに座り込みたくなるような、そんないたたまれない思いに、きっと何度も襲われるだろう。それでも、「こんな悲しみは私の中からなくなればいいのに!」とは、必ずしも思っていない。悲しみと喜び、悲しみと希望は、共存できると思っているから。そしてこの悲しみは私にとって、窓となり扉となって、私に新しい景色を見せ、新しい場所に連れていってくれるような気がしているから。


 リチャード・ローアは「『矛盾』の辞書による定義は、『二つのことが同時に真実ではありえないこと』だが、私は、『二つのことが、私たちの現在のロジックの枠組みの中では、同時に真実でありえないこと』だと定義したい」と言っていた。現在の私たちには「矛盾」と思えることであっても、私たちが慣れ親しんだ枠組みではなく、別の枠組みをそこに与えるなら、別の視点から見るなら、矛盾だと思っていたことがそうではなくなるのだろう。ローアは、イエスにとっての別の枠組み、別の視点とは「神の国」だったと言った。ダラス・ウィラードは「良い人生を送っている人(Blessed)とは、神の国の中で生きている人」だと言った。NTライトは、イエスが死からよみがえったイースターの朝から、神の国はこの地においてもすでに始まったと言った。神の無限の愛と憐れみの中に自分の現状を置くなら、私の目ではとうてい見えなかったことが、見えてくるようになるのかもしれない。私の常識や私の知恵ではとうてい理解できなかったこと、意味をなしえなかったことが、新しい意味をもって輝き始めるのかもしれない。そんな新しい「現実」(「新創造」と呼んでもいい?)が開けてくるのかもしれない。今私の心の中にある悲しみは、そんな新しい現実に生きるようにと私を手招きしているように思う。


So if anyone is in Christ, there is a new creation: everything old has passed away; see, everything has become new! (2 Cor. 5:17)